大黒柱:2010年1月31日 |
近所というほどでもないが、自転車で5分くらいのところに大きなケヤキがある。 太さでいえばちょっと類を見ないほどで、直径1.2メートルぐらいはあるだろうか。樹勢も若々しく、今が盛りとばかりに太い幹を天空に突き上げている。 そばを通りかかると、ときどき車を止めて、竹藪の坂を駆け登って見に行く。 よそ様の屋敷内の裏手にあるため、ひっそりとしてひと気もなく、あまりうろついていると不審者に間違われかねない。遠慮して竹藪の陰から眺めているのだが、いずれにしても怪しげな男に変わりはない。 それにしても、この惚れ惚れするような太さ、力強さ、頼もしさよ。 ほんとうは駆け寄って、抱きしめて、叩いたりさすってみたりしたいところだが、そこは我慢。しばらく巨木の眺めを堪能して、気付かれぬよう音もなく引きあげるのである。 去年の暮近くだったが、ケヤキのローテーブルの依頼を受けた。 女房の知り合いが家を建て替えるという。話はしばらく前から聞いていたが、いよいよ始まるらしい。 80何歳かのおばあさんを頭に、息子夫婦、孫夫婦、そして去年生まれたひ孫の4世代家族である。 築50年ほどの古い家を壊しての新築だが、できるものなら住み慣れた家の古材でなにか作り、残したいという。 わたしの仕事からは離れるけど、「古材の梁や柱を新築に使って生かすのはどう?」そんな風なことも聞いてみたが、実は今度の家は某ハウスメーカーの鉄骨住宅なのである。 まあともかく見てもらって、何か使えそうなものがあれば、解体時に捨てないで取り置くからということだった。 解体のはじまる何日か前、家の中をぐるっと案内して見せてもらった。50年前と言えば戦後間もなくで、ちょうど物が無い時代。これだけ大きな家を建てるのは大変だっただろう。びっくりするような材木が使われてないのはしかたない。 とすればやっぱり大黒柱だろうか。ご主人によれば、庭に生えていたケヤキを伐って使ったのだそうで、子供のころ遊んだ思い出があるらしい。 柱は30センチ角をちょっと切るぐらいの太さで、加工穴のない敷居から梁鴨居までの間を使えば1.8メートルはとれそう。それとやはりケヤキの床の間の框、これを脚材にして畳一枚ぐらいの広さの座卓を作ることになった。 黒光りする柱も製材してしまえば新しい木の肌が出て、新材とそう変わりがない。ケヤキの色は木によってばらつきがあるが、今回のはオレンジがかった黄土色だ。5枚取れた厚板から4枚を選び、天板を作った。脚の方は濃い赤褐色だったから、ちょっと趣がちがうケヤキでおもしろい。 打ち合わせたわけではないが、古いホゾ穴の一部や鑿あとを、埋めたり隠したりせずに見せた。新材ではないよ、というメッセージである。座卓を見るたびに、あの古い家の大黒柱だと思いだしてもらえるに違いない。 ケヤキは木が固くて重くて、加工には苦労したが、少しはお役に立てたかなと思っている。 |
オリーブの実:2009年11月8日 |
オリーブの木は、南ヨーロッパでは食用油を採るという目的以上に、何か象徴的な意味を持つらしい。 確かどこかの国の政党名にも「オリーブの木」というのがあったと思うが、日本でいえば「桜の木」みたいな感じだろうか。 そのオリーブの木が最近は庭木に使われるらしい。先日納品に行った伊豆の家では、芝生を敷き詰めた中庭に、背丈ほどのが一本植えられていた。 小ぶりな細長い葉が密過ぎずまばら過ぎずで程よく、明るい印象を与える木である。そのオリーブ色の葉の中に、黒く熟した指先大の実が幾つかなっていた。 僕の住む甘楽町でも、オリーブの木が何カ所かに植えられている。これはイタリアのある町と姉妹都市にあるためで、役場の前に大きいのが一本、他にも工房から坂を下った先には、道沿いに10本ほどが植わっている。ただ、実がなっているのは見たことがなかった。 また今は枯れてしまったが、工房の大家さんもオリーブの木を家の脇に植えていたことがあった。実を付けないんですかと聞いたところ、この辺じゃ難しいみたいで、気候のせいなのか、それとも土が合わないのか、よく分からないということだった。 納品に行った伊豆の家では、ちょうど玄関先で植木屋さんが仕事をしていた。テーブルの搬入のとき手をお借りしたのだが、頼みごとついでに、ちょっと聞いてみた。 オリーブの木には見た目は変わらないが、雄木と雌木があるとのこと。庭木としては、落ちた実を片づけなくて済むということか、実がないのを好む人もいるし、実のある方がいい人もいるらしい。僕なら絶対実のなる方だな、と思った。 しかしまあ伊豆は群馬よりずっと温暖だろうし、冬冷たい風の吹きすさぶこともないだろうし。群馬じゃ実までは無理かもしれない。 さて最近また気になって、散歩のついでに工房下の道沿いのオリーブを一本ずつ調べた。そしたら、あった、あった。 背丈の一番高そうな木に、数は少ないが薄緑色の実がちらほらと。おそらく全部集めても20粒ほどだが、黒く色づいたのも2,3個はある。新発見をした気分。 色濃いのをひとつもいで爪を立てると、ヌルリとした油っ気のある汁が出てきた。この実を搾れば、あのオリーブオイルが採れるわけである。 これから先は余談です。甘楽町はイタリアの姉妹都市からオリーブオイルを直輸入している(販売は物産センター)。これがほんとに美味しいので、うちでは欠かしたことがない。ただし今年の分は売れ行きがよくて、もう品切れになってしまったらしい。また来春まで待たなくては入って来ないとのことである。 |
国有林:2009年10月3日 |
政権が交代して半月ほどが過ぎた。 新聞の紙面に、新しい政策が矢継ぎ早に発表されている。 これから少しずつ世の中が変わっていくのではないか。そんな気がしているのは私だけではないと思うが、どうだろう。 先日ある小さな集まりというか飲み会があり、時節柄その話題になったが、皆さん新政権を概ね好意的に見ているようだった。 この先具体的に何がどう変わるのか。 まだ何も実現していないし、時間のかかることとは思うが、期待は小さくないみたいだ。 僕の仕事でいえば、高速料金の無料化なんかは、事の善し悪しは措くとして、実現すれば大きな変化である。 お客さんにとっては遠方でも訪ねて行く気になるし、今頂いている納品時の交通費なんかも安くてすむ。 材木の仕入れに他県に出かけるのも、気安く行けるのはありがたい等々。 しかしそれとは別に、これはと期待を寄せていることがある。 新政権の大きな政策のひとつに、地方への権限の移譲というのがある。いままで国がやってきた仕事のなかで、地方でやった方がいい仕事を県に移そう、その上で予算も人も県に渡そうということだと思う。 その国の仕事の中でわれわれに最も関係の深いのが、国有林の運用だ。現在は林野庁がやっている仕事である。 日本の森林を所有者で分ければ、国有林、県(あるいは市町村)有林、民有林である。 その中で一般に人里から遠くにあって、杉ヒノキなどの植林が及んでいないところは、国有林となっていることが多い。 わたしの使うような広葉樹の何割かは、この国有林の中にあると言える。中でも良材と言われる樹齢の高い大径木は、群馬県ではほとんどが国有林から産出されたものだった。 「だった」と過去形なのは、以前にも書いたが、林野庁が数年前から国有林の用材目的の伐採を止めたからである。森林保護に舵を切ったというが、実際は財政赤字が大きくなりすぎて、リストラをしたというのが本当のところらしい。 この国有林の維持管理が各県の裁量で出来るようになれば、また国有林からわずかづつでも材木が出てくるのではないか。せめて地元で使う分ぐらいは、と淡い期待を持っているのである。 最近は原木市場に行っても、土場(置き場)は閑散として寂しい限りだ。杉ヒノキとともに並んでいるのは里山の細い木ばかりで、買ってみようと思うものには滅多に出合わない。買い付けに来る人もずいぶん減ってしまった。 今や材木屋さんの扱うは広葉樹は、ほとんどが輸入材となってしまっている。それは家具ばかりではなく、フローリングやカウンターなど内装材のほとんどすべてと言っていい。 日本は豊富な森林資源を持ちながら、材木の輸入大国なのである。 |
名前:2009年8月20日 |
すこしばかり時間ができると、椅子を考えることにしている。家具の中では椅子が何といっても難しいし、それだけにデザインや設計に時間がかかるからだ。 ふだん温めていたアイデアが整理されて、なんとか図面になると(椅子の場合は原寸図が多い)まずは、ひとつ試しに作ってみる。 スケッチや図面といった平面から、立体が初めて目の前に現れる。 ところがこれでOK、このまま行こうなんてことにはまずならない。 ここが変だぞ、あそこもバランスが悪い、しばらく眺めているといろいろ問題点が見えてくる。そういったところを時間をかけひとつひとつ修正して、なんとか満足のいくものに仕上げていくのだ。 毎日それに掛りきりというわけでもないが、まともな形になるまで半月やそこらはすぐに経ってしまう。またデザインが完成した後も、作る度にすこしづつ修正を加えているケースが多い。 さてやっとのことで完成となれば、その椅子に名前をつけなくてはと思う。人だって商品だって何だって名前がある。 もし名前がなかったら、お客さんと「あそこに出ていた右から2番目の椅子で、肘掛けのない座面が青い布の・・・」なんてやりとりをしなくてはならない。たいして売れなくたって、ちゃんと名前はあったほうがいいだろう。好みとしてはできるだけ短い名前が。 ところがなかなか名前が浮かばないのだ。何でもいいかといえばそうでもない。言葉の響きから連想するイメージがその椅子にマッチしていなくては。とか、名前の背景にストーリーがあった方がベター、なんて考えるからいよいよ難しくなる。 だからたいていは、ダイニングチェアとかサイドチェアとか用途で呼び別けて、そのうちいいのが思い付いたら、なんて思ってそれっきりになってしまう。 背もたれのない座だけの椅子、スツールが好きで昔から幾つか作っている。最初のころ作ったある椅子はずっと名前がなかったが、ウチにいたアシスタントの寺本君がそいつを見て、なんだかウサギの脚を連想するというので、それ以来ウサギスツールと呼んでいる。挽き物のふっくらとした脚がかわいい小椅子。これは今も定番で作っていて、ときどき注文が入る。 今年考えた新作のスツールは、カーブした木の座面に直線的な4本の脚。さてなんて名前がいいか。制作に割と手仕事を多用するので、英語でいえばハンドメイドのような言葉を、スペイン語の辞書を持っているという友達に調べてもらった。一言でぴったりの言葉はないが、mano(マノ)が「手」という意味だそうで、イタリア語でも「手」は同じmano。短い言葉で響きもいいしmanoに決定となった。 それからしばらくその名前のことは忘れていたが、最近本を見ていたら猪熊(イノクマ)という名前が出てきて(絵描きの猪熊弦一郎さん)、イノって言うのもいいかとおもった。そのスツール、イノシシが四つ脚を踏ん張っている姿を連想しなくもない。ウサギとイノシシも悪くないか。 辞書を見てみると、イノという言葉は見当たらないが、英語でイノセント(無垢)とかイノベーション(革新)とかあってイメージはよさそう。で、マノからイノに変更することに決定。 思い付きで変更しても、作ったものが店頭に並ぶわけではないので、何の問題もない。というより、椅子の名前まで誰もチェックしていないだろうけど、名前をあれこれ考えるのは楽しいのです。 |
卯の花:2009年6月13日 |
月じまいの晦日には、工房の家賃を大家さんのところに払いに行く。近所にお住まいの大家さんは夫婦で農業を営んでいて、七十過ぎといってもまだまだお若い。息子さんは東京でサラリーマンをしているいるらしい。 玄関先で通帳にはんこをもらってすぐに帰ることもあるが、行けばたいてい立ち話になる。このごろ陽が延びたとか、まったくよく(雨が)降るねなんてさしたる話もないが、それはそれで平穏無事ということかもしれない。 作業場で収穫したニラの出荷に追われているときもあり、ニラ持ってくかいなんて袋に詰めてくれる。またそれが白菜だったりブルーベリーだったりする。 このあいだ行った時は奥からわざわざ二人で出てきて、ラジオ聞いたよって喜んでもらった。ぼくがNHKのふるさと自慢に出たのを聞いたのである。 「まったくお恥ずかしい限りです」 「いや立派にできてたよ」 まあそう言ってもらえると、少しは出た甲斐があったかな。 ラジオの話でひとしきり盛り上がったあと、 「ところで、この花何か知ってる」と聞かれたのは、下駄箱の上の鉢植え。緑葉の中に白い小さな花が鈴なりに咲いている。 「見かけない木ですね」とはいったものの、もとより花木のことはさっぱりである。 「ウツギなんだよ」とおじさんが言うと、傍らに立つおばさんがすかさず歌いだした。 「ウーノハナノニオウカキネニ・・・・ナツーハキヌ」と一番を歌いきってしまった。ちょっとびっくり。 なんでも最近、この歌をふと思い出し口ずさんでみたら懐かしくて、ついでに卯の花が欲しくなって、おじさんにリクエストして探してもらったのだそうだ。 この白い花が咲くといよいよ初夏の到来、とは歌の通り。 ウツギ(卯の花)なら、ぼくも聞いたことがあった。確か木釘、そう、桐箪笥なんかに使う釘は鉄じゃなく木釘を使うが、あれは職人がウツギを削って作るとか。使う前にフライパンで空炒りして乾燥させてから・・・。 なんて昔どこかで読んだ話をお二人に披歴したのだが、あれはまったく余計だった。 |
引っ越し:2009年5月1日 |
15年ぶりだろうか、引っ越しをした。 これまでそれなりに恵まれた借家に居たので、ずっとここでいいかなんて気持ちになっていたのだが、事情があって出ることになった。 元のところからそう遠くはない。直線距離でいえば1キロほど北へ移動したことになる。今度も一軒家ではあるが、相変らず借家暮らしに変わりはない。 リヤカーを曳いても行けるほどの距離、だとしても引っ越しは引っ越しで、家財をまとめて段ボール箱に詰め、ひもで縛ったりして、車に載せて運ぶのは同じである。またその後の荷ほどきが大仕事だった。 それにしても、まあなんと荷物の多いことか。仕事で使うバンと借りてきた軽トラックと、車二台で行ったり来たりを何度繰り返したことやら。 何が取り立てて多いというわけではないが、衣類、本、食器などは自然と貯まるもので、この際とばかりゴミ袋に入ったものも多い。 しかし一家三人でも、こんなに物がないと暮らせないのだろうか。 否である。大学生になって独り暮らしをしていたころなら、家財道具一式が軽トラック一台にじゅうぶん積めた。それでそれなりに暮らせたのに、何でこんなに増えてしまったのか。 旅先で買った思い出の品、着なくなった洋服、いただきものの食器、一時期熱中した趣味の道具、読み返すことのない本。そんなのが年を経るとともに、押入れの奥や戸棚の隅に、澱(オリ)が溜まるように増えていった。ふだんは上澄みの部分だけで生活していても、引っ越しとなれば底ざらえをしない訳にはいかない。厄介なものが後から後から出てくる。さあ、捨てるべきか残すべきか。ひとつひとつ決断を迫られる。 人はなかなか、フーテンの寅さんみたいにトランクケースひとつでは人生を送れないものである。 |
浅間山の煙:2009年2月3日 |
世の中、不況風が吹き荒れています。 新聞を見れば、減益減収だとか、赤字転落、人員削減といった記事が経済欄の紙面を埋めつくしています。 昨日の新聞にも大手企業のH社が7000億円の損失で、N社は3000億円の損失だとありました。この半年のあいだに、電気メーカーたった2社で約1兆円を失ったことになります。 どの企業も似たりよったりですから、国全体で見ればいったいどのくらいの損失になるのでしょうか。国の予算をはるかに超えるのかもしれません。 しかもこの不況風は世界全体に吹いているのです。アメリカもイギリスも中国や韓国にも。この時とばかり大儲けしているところはないらしいのです。 しかし疑問に思うこともあります。 世の中に出回っているお金は、そんな急に無くなったりしないはずです。 金は天下の回りものですから、庶民の財布の中や会社の金庫の中か、あるいは銀行の金庫などを行ったり来たりしてます。でも、それぞれの国で印刷され出回っているお札は、おおよそ一定なはずです。 どこかが貯めこんでいるのでしょうか。銀行だって赤字だというのですから、覗いたわけではありませんが金庫の中は淋しいものだと思います。 いったい、会社や投資家や政府が失ったお金はどこに消えたのでしょうか。 きっとこうだと思います。 どこか遠い国に、とてつもない大金持ちが、人知れず暮らしています。 敷地には邸宅と、なぜか巨大な焼却炉があるのですが、その高々とそびえる煙突すら、敷地があまりにも広いために外からはうかがい知ることができません。敷地には線路が引き込まれ、専用の駅さえあるのです。 その広大な敷地の中に、このところひっきりなしに何やら運び込まれています。貨物列車で日に何十両になるという積み荷は、各国のお札です。ドルやユーロ、それに中国元と日本円などなど。邸宅の中に入りきらないお札が、野ざらしで山積みにされています。 もうお分かりだと思いますが、このお金持ちの日課は有り余るお金を燃やすことなのです。パワーショベルで次から次と、お札が焼却炉に放り込まれています。焼却炉は昨年の暮あたりからフル稼働に違いありません。 |
皮むき:2009年1月5日 |
![]() 年の暮も押し迫ったクリスマスの翌日、買ってあったクルミと栗の丸太、合計4本を製材をした。 製材し終わった木を工房に運んで来て、先ずしなくちゃいけないのが皮むきだ。皮が付いたまま積んでいるところもあるが、これをやっておかないと、キクイムシが皮の下を食べ回るので、乾燥が終わるころには周縁がぼろぼろになってしまうこともある。食われた外側を切り落として使えば問題ないが、ウチでよく作る耳付きの天板なんかはできなくなる。ここはひと手間惜しまないほうがよい。 ただ、木によっては皮がするするっとむけるのもあれば、困ったことに皮と身が密着して、ほとんどはがれないのがある。こうなるとやっかいで、かなりの重労働を強いられることになる。残念ながら今回は、4本とも密着タイプだった。 秋から冬にかけて伐採された木は、水を吸い上げていないために成長層である外周に水分が少ない。身と皮が固く締まっていて密着していることが多い、というのが私の考えだが、どうだろうか。 濡れてずっしり重い板を、アシスタントの高橋君と二人で、一枚ずつ台上に引っ張り上げ、身と皮の間にバールをこじ入れて、力ずくで引きはがしていく(写真は栗の皮をむいているところ)。 あいにくこの日は、西風がとびきり強くて、この冬一番という寒さに凍えながらの作業となった。ウチの仕事では、この後の桟積みとこれが一番の重労働だろう。家具屋の仕事というより、材木屋さんの仕事みたいではあるが。 製材、皮むき、桟積みと2日間にわたる作業になった。 お客さんに乾燥までどのくらいかかるのですかとよく聞かれるが、一般には1寸(約3cm)厚の板で1年といわれている。厚くなれば比例して時間も長くなる。ただし置かれている環境によってだいぶ差があって、ここは風通しのよい丘の上なので、かなり乾燥が早い。 これから春までは、からっ風の季節である。 板に割れが入らぬよう、虫に食われたりせぬよう、乾燥が終わるまで無事を祈るのみである。 |
シャンプー:2008年10月9日 |
確か、最初は2本だけだった。 シャンプーとリンスが1本づつ、お行儀良く窓辺に並んでいた。 最近増えたなと、家の風呂場に並んだボトル類を数えてみたら、なんと14本もあった。洗髪関係にボディーソープも。何でこんなことになったの。 最近、小学生のムスメが髪形にうるさくなった。母親に似て、髪質が太く、くせっ毛なのがお気に召さないらしい。ストレートパーマをかける、などと生意気を言っている。 「もう、なんとかちゃんとなんとかちゃんはかてるし」とか、クラスメイトを引き合いにして親に迫ってくる。 冗談じゃないよと受けあわないが、一方でさらさらヘアーにあこがれるのも分からぬでもない。当方も髪型に関しては、昔から悩みが多かったからである。 普段使っているシャンプーが良くないのではないか。テレビCMでやってるアレに変えてみよう。なんとかちゃんもアレがいいって言ってたし。という流れがあったのかどうか知らないが、新しいシャンプーとコンディショナーがいつの間にかワンセット増えているのである。もちろん今までのは途中放棄される。 また母親は母親で、通販か何かで買ってはみたものの、髪に合わないという理由で、次なるワンセットをどこからか取り寄せる。 当然のことながら、使い切らないボトルが棚にあふれることになる。 シャンプーなんかに何のこだわりもない私は(こだわるほどの量もないし)、残りもののシャンプー&リンスを、ボトルの数を減らすべく、せっせと使うのだが、数的不利はいかんともしがたい。2対1、いや髪の総量で比較すれば、おそらく20対1ぐらいで負けている。 勝負にならないわけで、結果が、棚を埋め尽した14本のボトルなのだ。 |
天守閣:2008年9月2日 |
お盆に帰省した折、彦根城に行った。 子供が、夏休みの提出物に彦根城をレポートしようというので連れていったのである。 彦根城はずいぶん昔に一度か二度、登ったことがある。小学校の遠足か、それとも子供会の旅行のようなものだったか、記憶のかなたに微かにあるのは、天守閣に登る梯子段の怖ろしく急だったことぐらい。 すっかり忘れてしまって初めて訪れるようなものだが、40年ぶりかと思えば感慨もないわけではない。 めざす城閣は静かな住宅街にあった。 「国宝・彦根城」といっても、観光地特有の浮かれた感じがしないのは土地柄のせいか。土産物屋さんが列をなす、お決まりの風景が見当たらない。 琵琶湖の水を引き込んだお堀端には高校があり、制服の生徒さんが観光客に道を聞かれている。 枝垂れ柳の下を歩きながら、「お父さんもこういう高校に行きたかったな」と。今さら子供に言ってみても栓のないことではあるが、それぐらい環境がいいところである。 恨み事を言えば、私が通った高校は田んぼの中にぽつんという立地条件だった。 お堀にかかる橋を渡り、入場料を払って石段を登り始める。 途中、息を切らした年配のご婦人が「いったいどこまで登らなあかんのやろ」と連れ合いに助けを求めている。 広く深い堀に、高く切り立った石垣にといい、ループ状に巻いて天守閣を目指す石段にしても、400年も前に、まったく気の遠くなるような土木事業である。築城というのは土木工事8割、建築が2割ぐらいのエネルギーではないか、などと司馬遼太郎気どりで思索をめぐらした次第。 ![]() 置いてあった資料によれば、当時徳川家康は西の勢力(毛利、島津か)に備えて、井伊家に築城を急がせた。土木工事は各藩に分担させたため、石組みの方法が場所により違ったりする。 天守閣にしても、近在の廃寺や大津にあった城の古材を利用して作っているため、外見は美しい仕上がりだが、中の構造材を見ると不揃いなものが多い。 例えて言えば、古いスクラップ車を3、4台集めてきて、新車を1台作るようなものか。 そしてこの梁(はり)である。曲がっているというより、S字に蛇行している。おそらく松材だろうが、網代を編むように上に下に組み上げて見事である。どうやって墨付けするかなんて考えてみても、私に分かるはずもない。ただ昔の人は偉いもんだと感心するばかりである。 おそらく技術には二通りあって、ミリ単位あるいはコンマ何ミリの精度でパーツを作っていき、その組み合わせとして精緻なものを完成させる、これが現代の一般的な技術、技能である。 もうひとつは、古材や規格外の半端な素材を、苦もなく使いまわして、高度に洗練されたものを作る技術。今は失われてしまったが、かつてあった技術。天守閣を見てそう思う。 |
割り箸:2008年7月13日 |
このあいだ、久しぶりに「吉野家」に行ったら割り箸がなくなっていた。 樹脂製の使い捨てじゃないものに変っている。黒い塗り箸風で、清潔感もあるし悪くない感じ。そして、なによりこういうご時世だから、店のイメージアップにもなるだろうし。 一店あたり一日500食売るとして、全国に3千店あれば、日毎150万本の割り箸か、などと当てずっぽうな数字を弾いてみたが、実際はどうか。ネットで調べてみると、全国に千店舗あり、一日60万人の来店とあった。 そんなものかといえばそうなのだが、いまほとんどの飲食店と弁当屋、コンビニが割り箸を使うのだから、その消費量たるや怖ろしい数に違いない。ついでにそっちも調べてみると、日本人は年間260億膳の割り箸を消費するそうである。 割り箸は間伐材や製材の余ったところで作るから、森林破壊にはならない。そんなふうに言う人もいるが、おそらくそれは国産の割り箸の話である。日本で消費される99%の割り箸が輸入品らしいから、ほとんど当てはまらない。 先日、ある材木屋さんが店じまいするので、在庫品を買わないかという話が舞い込んだ。杉、檜などの建築材を扱う所なのだが、どういった訳か昔仕入れた楢材がかなりあるという。景気が悪いのもあるのだろうが、健康に不安があるために、ぼちぼち店を片付けるのだと言う。 話がまとまり後日引き取りに行ったら、積み終わって帰り際に、これ持っていきなよと渡されたのが杉の割り箸だった。 お客さんに配るために、以前吉野杉で作らせたのがまだ残っているのだそうで、材木屋の名前が印刷された箸袋に入ったのが50膳分。 杉の柾目の赤身だけで作った、料亭で出てきそうな上等な割り箸である。 ありがたく頂いて帰ったのはもちろんだが、正月でも来ないとなかなかウチでは使えない。高い所に仕舞い込んでしまったのだが、さてどうしたもんだか。 |
屋敷神さま:2008年6月7日 |
![]() 毎年4月後半になると、天気の好い日をみて義姉の墓参りに浅間山の麓の村まで出かける。 来年は13回忌の年というから早いものだ。 通い慣れた峠越えの山道を行けば、家から2時間ほどで着く。 義姉の嫁ぎ先だった家に立ち寄って、台所でお茶をいただくのはいつも同じで、そのあと、家の裏手の畑のなかにひっそりとある屋敷神さまにも決まって行く。私のお気に入りの場所だから、どうしても足が向いてしまう。 見晴らしのいい畑の中にそれはあって、こんもりと盛られた浅間の噴石混じりの土が程よく苔むしている。盛り土のてっぺんに木の枝で組んだ可愛らしい祠が載る。 雨よけのワラ屋根は毎年葺き替えるらしく、行く度に新しい。 祠の中に白磁のキツネが対でいるのはお決まりで、赤や金の彩色が鮮やかだ。 里から半月ほど遅れの桜が、あちこち咲いている。 ここは寒冷地のせいか、春を待ちわびた花々が、この時期いっせいに開花する。梅もコブシも木蓮も、そして桜も満開という不思議。 空の青さ、渡る風の清々しさ。神さまのいるところなのである。 |
キツツキ:2008年5月5日 |
![]() 栗の丸太にぽっかり開けられた穴はキツツキの仕業である。 子供の拳ほどの大きさだが、奥はくちばし状に狭く、深さはそんなにない。 この日、市場に並んだ材の中では、かなり太くて、素性の良さも際立っていたのがこの栗の木。事務所で顔を会わせた職員さんが、けっこう太いのが出てますよと教えてくれたとおり立派なもので、この木の他にはこれといって目ぼしいものはなかった。 最近、栗はよく使うし、買っておきたいところだが、問題は長さ4mの中ほどやや上に一ヶ所開けられたこの穴。といっても穴自体はそれほど苦ではなく、怖いのは、キツツキが狙った虫のほう。 以前製材屋さんから教わったのだが、キツツキがつっついた木は、確実に虫が喰っている。要注意なのである。実は何年か前、知らずに買って失敗したこともあるのだ。 栗の木は立ち木の時点で、小さな虫が中を喰う事があり、そういった木は製材すると1ミリほどの穴が出てくる。少しなら埋めようもあり、まだ我慢できるが、あまり数が多いと見苦しくて使いものにならない。乾燥が進めば虫はいなくなるので、製品になってからの被害はないのだが。 切り口を確かめると、末側に、よく見ないと気付かないほど小さなピンホールが数ヶ所あった。元のほうは年輪も詰まって、惚れ惚れするような綺麗さである。さて、どうするか。 こういった、ちょっと危ない木の場合、当然あまり高くは入れない。しかしひょっとすると、中の被害が軽微でラッキーというのもあり得るから、他の人に持っていかれるのは口惜しい。安く入札して後悔するのもいやだから、そこそこは張ってみる。 結果、買えたんですが、まだ挽いてないので中身はこれからのお楽しみなのです。 |
目覚し時計:2008年3月4日 |
![]() 先日、目覚し時計を探していて、「無印」で見つけたた小ぶりな時計。 匠気を感じさせないすっきりとしたデザインが気に入って買い求めた。単純な構成だから、だれがやっても同じようだけど、なかなかこんなにきれいにまとめられない。買ってからときどき眺めて、感心することしきりなのである。 まだ怖いもの知らずだった20代のころ、時計のデザインをしている会社の面接を受けたことがあった。 特に時計に興味があったわけではなく、またそんなデザイン経験もまるでなかった。新聞か何かの求人欄で小さな募集記事を見つけ、あわよくば使ってもらえるかもしれないと出かけたのだ。 先の見えないアルバイト暮しに、そろそろ見切りをつけたかったのも確かである。 静かな住宅街のマンションの一室にあったその会社は、机が三つほど並ぶ小さなデザイン事務所で、たしかシチズンの時計をデザインしているとのことだった。 私ひとりのために手を休め、代表の方と若いデザイナーの2人で、かなりの時間をかけて面接をしてくれた。 長いやりとりの後、「やれるかどうか判らないけれど、本当にやる気があるなら来てもらってもいいよ」というのがのお二人の結論だった。 しかしそう言ってこちらに下駄を預けられると、二つ返事というわけにいかなくなった。 たいした動機もなくて、たまたまここに来てしまったような自分では、とても勤まらないのではないか。そう思えたてきて、その場で辞退申し上げた。家路に着く足取りが、妙に軽かった思い出がある。 |
石段:2008年2月10日 |
![]() 工房の裏は大家さんのブルーベリー畑になっていて、畑のほうが一段低いのだが、工房の土地とは腰高ほどの段差がある。 畑の横には東西に長い小屋があって、そこに当座使わないような材木を置かせてもらっているので、ときどき用があると、この段差を越えて小屋との間を行き来することになる。 手ぶらでも一足飛びに乗り越えるにはちょっと高い。石垣に足を掛けて、ヨッコラショという高さである。 とくに重い板材を持っていたりすると、その段差の上り下りが苦になっっていたが、ある日、私の知らないあいだに大家さん手製の石段ができていた。 加工した石ではない。どこで見つけてきたのか、段々のある自然石をそのまま置いたプリミティブなもの。たぶん日曜日にトラクターで持ってきたのだろう。これで上り下りが格段に楽になった。 しかし幅といい高さといい、こんなぴったりサイズの石が、よくまああったものである。 |
額彫り:2008年1月16日 |
![]() 額彫りをやるのも久し振りだった。写真展用に6個頼まれて、延び延びになっていたのを年末になってやっと仕上げた。写真はクルミの木だが、今回桜と樺の木も使った。 一枚板を葉書大にくり抜いてから、中をノミで彫っていく。緩やかにカーブをもたせた内側の仕上げは、小鉋(かんな)豆鉋で。ほとんど手作業なので、一日中やっていると終盤は筋肉痛との戦いである。 この額、木工を始めたころはずいぶん作った。展示会などでそれなりに売れたわけで、正確に把握はしていないが、今までに200個ぐらいは彫ったのではないか。 またそのころはこの額の仕事が好きだったのも確か。ノミや鉋を駆使して一枚の木に形を与えていく、まさしく木工の王道であり醍醐味だと感じていた。 最近はテーブルや椅子、大きなキャビネットなどの仕事がほとんどで、小物を作ることがめっきり減ってしまった。宣伝らしいことを何もしないので、小物はやらないと思われているのかもしれない。 そういえば、年が明けて、いくつか鉋を注文した。鉋を買うのも久し振りである。道具類は木工を始めたころほよんど揃えたので、たいていの鉋はあるのだが、なんだか新しいのが欲しくなったのだ。 鉋で木を削るのは、やはり木工の楽しみのひとつと私は思っている。ただし代償としての筋肉痛も引き受けないといけないのだが。 |
シオジ:2007年12月17日 |
![]() 原木市場に高々と積み上げられた丸太はシオジの木。直径50センチから80センチ、長さ3〜4メートルの大径木が20本以上はあるか。 普段から市場通いをして原木は見慣れていても、これだけの量はなかなか見ない、圧巻である。 この丸太の山、さして盛況とはいえない暮れの市に出品されたのではなく、新春の初市のために集められた、いわば目玉商品なのだ。 一般にはあまり馴染みがないかもしれないが、シオジ材はよく流通しているタモ材の仲間で、色や木目が似ている。ここから程遠くない群馬県上野村の特産といわれる。 こんな立派な木があるのは山の奥深くの国有林だから、むやみに伐採はできないのだが、年に何回かある記念市のためには特別許可が下りるのか、シオジやケヤキ、カバなどが上野村から運ばれてくる。 先細りの木材業界、活気を失った原木市場にカンフル剤を打つ、といったところか。 |
ベンチ:2007年11月3日 |
![]() 埼玉県のとある病院の建設現場にて、試作の椅子を持ち込んで、張り地の色を打ち合わせているところ。 今月末にオープンするこの病院の待合室のベンチを頼まれていて、現場での色合わせとなった。とりあえず一人用のを作って、手持ちの布地を張ってみた。実際のベンチは、この椅子が横にずらっと並んだようなものになる予定で、すでに製作に入っている。 ただこの椅子でかなりの部分を占める張り地の色は、工房で色見本をながめていてもなかなかイメージが湧いてこない。家具を単体の置物として考えると、不似合いな選択をしてしまうおそれもある。 カーペットや壁の色と質感、置かれる空間の広さと明るさ、などなど、やはり現場に行ってみないと分らないことが多い。 建築設計の相崎さんが、使えそうな色のサンプルをいくつか取り寄せてくれたので、施主の方も交えて打ち合わせとなった。 現場でやればすぐ決まるよ、とは相崎さんの予想だったが、迷うばかりでなかなか決まらない。色鮮やかなのは浮いてしまう。淡い色調は汚れが目立つし、かといって濃いのは、地味すぎて色気がなくなる。これで行こうという決定打が出ない。 もう少し別のサンプルも取り寄せて、やり直しましょうということでこの日はお開きになった。色は難しい。 |
イタリア:2007年10月14日 |
![]() 酒を飲む人なら見覚えがあると思う。シャンパンのコルク栓を固定する針金である。 お目出度いことがあると、この炭酸入りのワインを空けて乾杯とはパーティーの定番だが、自分で買って飲んだりしたことはない。 車の小物入れに一年余り眠っていたこの針金は、拾ったものである。 昨夏の初めに、一週間ほどイタリアのチェルタルドという街に行った。ローマから見れば北の方角、フィレンツェのちょっと南にあるトスカーナ地方の小さな街である。 その古城のある美しい街と、わたしが住む甘楽町とが姉妹都市という縁で、古い教会を会場にチェルタルド側から6名、甘楽町から6人のグループ展を開いた。その展覧会の準備を兼ねて行ったのだが、着いた翌日がたまたまサッカーのワールドカップの決勝戦の日という、なんともラッキーな巡り合わせだった。もちろん勝ち上がったのはイタリアとフランスである。 試合は夕刻、まだ明るい時間に始まった。 こういう大一番は、屋外にテレビを持ち出して観戦するというのがこの国のスタイルらしく、石畳の路上にご近所が集まり、一台のモニター(決して大きくはない)を囲んで見入っている。 我々の一行が食事を終えて宿の近くをぶらぶら散歩をしていると、顔見知りの家の前で、一緒に見てかないかと誘われた。どこかの家から椅子と飲み物が出てきて応援の仲間入りとなった。 試合中ボールが動いている間は、皆が声を潜めてじっと画面に見入る。一旦プレーが止まると、見ているほうも肩の力が抜けるのか、身振り手振りでわいわいと、普段のイタリア人に戻った。 そしてゴールしようものなら、街中が、いやおそらく国中でウォーと雄たけびを上げるので、たとえ試合を見ていなくても点が入ったぐらいのことは判る。サッカー以外ではありえない一体感。 結果はご存知のようにジダンの頭突き退場騒ぎがあったりして、イタリアの優勝。それから祭りのような大騒ぎがはじまった。だれかがシャンパン出してきて、栓を抜く。皆んなのコップに、もちろんわれわれにも注いでくれて乾杯となった。 そのあとイタリア中が酔っ払った夜が始まるのだが、私たちは明日の予定もあるので、ほうぼうで鳴り止まぬクラクションの音を聞きながら、ホテルに帰った。 翌朝、やけに早く目が覚めてしまったわたしは、宿の近くをひとり散歩した。夜更かしをした街はまだ静かに眠っている。昨晩、観戦をした通りは、何ごともなかったようにきれいに片付けられていた。ここでは毎朝清掃車が回り、路上のゴミを掃き取っていく。 人っ気のない通りに、うなりをあげて走る清掃自動車を見送ったあと、何気なく足元を見ると、石畳の上に素敵な形をした針金があった。きのうのあれに違いない、とその時は何だかとってもいいものを見付けたような気がして、ポケットに仕舞い込んだわけである。 |
屋根:2007年9月14日 |
![]() 先日の台風9号は、県西部にかなりの被害をもたらした。隣の富岡市や吉井町の名前がニュースでたびたび登場し、気象情報から目が離せなかった。ここ甘楽でも激しく降ったのだが、幸い大きな災害はなかったようである。 工房は建物が年代物のため、雨漏りが激しかった。屋内に水溜りがいくつも出来るほどで、材木と木工機械も一部水をかぶった。 翌日は、水を汲み出したり機械の錆を落としたりで半日がかりであった。 台風の後も天気がぐずついたが、たいした降りでもないのに一箇所やっぱり雨漏りが止まらないところがある。久し振りに晴れたこの日屋根に登ってみると、案の定そこの瓦が一枚割れていた。瓦は肉の薄いセメント瓦というのである。こんなときのために予備があったので差し替えて修繕完了。 高いところは苦手なのだが、この日は風が心地好かったので屋根で少し長居をした。山の向こうの雲が秋めいている。梅原の画「北京秋天」にあったような雲である。季節が変わろうとしている。 |
栗の丸太:2007年8月28日 |
![]() 製材所で撮った栗の丸太の写真である。これからフォークリフトで台車に載せ、製材が始まる。長さは約4m、こっちに見えてる木口の径は60cmぐらいあるか。 実はこの木、原木市場で見かけて入札したのだが、落札できなかったもの。買ったのは顔馴染みの製材屋さんである。 落ちると思っていたのを他人に取られるのは悔しいが、まあそういうこともあるかとしばらく忘れていた。 先日、別の用件で製材屋さんに電話したら、この栗の話になった。売れずにまだそのままあるという。それなら僕が買いますと即、話がまとまった。 行ったり来たりで費用も余計にかかったが、結局そっちに行く運命だったんだよ、と製材屋さん。釣り逃した魚を魚屋で見つけて買うようなこともあるのだ。 |
小鉋:2007年8月13日 |
![]() 大小合わせて50丁ほどある鉋(かんな)の中で、一番使っているかもしれない。刃幅3センチ、小鉋というより豆鉋の部類か。ホゾ先の面取りをしたり、小さなパーツの鉋がけや、角棒を丸めたりと手近にいて活躍する。 木工を始めたころに買ったのだから、鉋の中では一番の古株でもある。ただし刃は2代目。1代目が切れ止んだので、途中で取替えている。 先日この鉋がゆくえ知れずになった。 現場に持っていって使ったのだが、帰って来て探したら見当たらない。タオルにくるんで道具箱に入れておいたはずなのに。 建て主の人に話したら、暗い中わざわざ見に行ってくれた。が、やはり見つからなかった。 ないと不便だし、また新しく買うかなんて気になっていたら、2日後ひょっこり出てきた。無くしたと思った現場の次の日も別の現場があって、そっちに忘れていたのだ。薄汚れたタオルにくるまれて出てきた。嬉しいというよりは、なんだよって感じである。 |
梅雨:07年8月1日 |
![]() 8月に入ろうかというのに、なかなか梅雨が明けない。 先月の月初めのころは、からりと晴れた日が何日かあったので、今年は空梅雨だね、なんて言ってたのに、長い梅雨になってしまった。台風もずいぶんな雨を降らせた。 子供はとうに夏休みに入っている。夏休みになった子供にとって、晴れるか降るかは大違い。プールに遊園地、海にキャンプにお祭りとお出かけが続く。 いつもは新聞のテレビ欄しか見ないのに、横の天気予報のほうが気になってくる。 明日はなんとか晴れますように。てるてる坊主に願かけをしたのだが、吊るすのに適当な軒先がうちにないので、表の壁にべたべた貼ったらしい。 |
日本製:2007年5月13日 |
しかし、こうも簡単に壊れるものだろうか。買ったばかりのパソコンが壊れたのである。 最近、丸7年使ったパソコンの調子がすこぶる悪くなってきた。まあここらが替え時かと一大決心。最新型に変えて使い始めてから、ちょうどひと月目のことである。突然画面が真っ暗になり、それっきり液晶のライトが点かなくなった。 次の日、メーカーに電話して復旧をいろいろ試みたが、結局だめで、引き取って修理という扱いになった。最短で明日の午後、伺いますとのこと。国産の一流といわれるメーカーなので、この辺の手際はいいとしても、だからなおの事、こんなに早く壊れるモノかとお聞きしたかった(じっさいは聞かなかった)。 今回のパソコンを選ぶとき、安売りで鳴らす外国製品も候補にあったが、やはり信頼できるのは日本製だろうということで、割高にはなるが国内メーカーのモノにしたのだ。にも係わらず、こんなことになろうとは。 おそらくパソコンのようなものは、国産といっても世界中からパーツを調達して組み立てているのだろうから、純粋なメードインジャパンではない。外箱に何国製と書いていようと、そういう意味では皆同じ多国籍製なのである。 そして世界的な価格競争にさらされる商品だから、各パーツを少しでも安くということになる。結果、品質もそれなりにおろそかになるのではないか、というのが私の診立てである。 もう10年近く前、工房をはじめてしばらくの頃だが、ときどき世間話をしに来る近所のおじさんがいた。忘れた時分にふらっと現れて、30分ばかり話をしたあと、いつも決まって「邪魔して悪かったな」と帰っていく。年金暮しといった風情の、そのひとから聞いた話がある。 おじさんの家の斜向かいの人が、小さな町工場をやっていたらしい。 何人かの人を使い、ある家電メーカーの部品を作っていた。おそらく下請けか孫請けだったのだろう。 当初、その部品の卸値はひとつ35円だったという。それはかなりいい値段だったらしく、工場の経営も順調だった。ところが突然、メーカー側は1個15円にしてくれと言ってきた。 かなり無茶な要求なのだが、他に仕事も無いため、泣く泣く承知したという。 しかしそれも束の間のことで、今度は1個7円でやれと迫られた。嫌なら外国で作らせるからと言うのである。斜向かいの経営者は企業努力もこれまでと、工場をたたまざるを得なかったという。そして心労がたたったのか、その後病に倒れてしまい、後遺症で半身が利かない生活になった。 パソコンを修理に出したあとで、その話がふと記憶に甦った。 ずいぶん前に聞いた話を思い出したのはたぶん、そのときの値下げを迫ったメーカーと、壊れたパソコンのメーカーとがたまたま同じだったからである。 |
手帳:2007年2月10日 |
ある日曜日のこと。日も暮れたし、そろそろいいかと家で一杯やり始めたところで、あっと気付いた。6時から会合があったのを、すっかり忘れていた。 時計を見れば6時を15分過ぎたあたり、会合場所は車で30分程のところである。飲んだら運転は出来ないし、もうどうにもならない。万事休す、欠席という結論に達したところで電話機が鳴った。 これは呼び出しに違いない、と思い女房に出てもらうと、案の定、会の事務方をやっているHさんかららしい。手でバツのサインを送り、「仕事で出かけてます」なんて苦し紛れを言ってもらったのだが、反省しきりであった。 歳相応といえばそうなのかもしれないが、このごろ会議とか集まりが増えた。 平日の夜だったり、休みの日だったり。本当はみんな家でのんびりしたいに違いないが、時間を工面して律義に集まってくる。大抵7、8人の集まりである。 話し合いも終り、さて次の会合はいつにしましょうかなんてことになると、バッグから手帳を取り出し、パラパラとページを繰って予定をチェックし始める人が多い。あるいはケイタイのスケジュールカレンダーをカチャカチャやりだす人もいる。 ところが、私はどちらも持ち合わせないので、その間手持ち無沙汰になってしまう。仲間はずれの子供みたいに、腕組みなんかして暇そうにそれ眺めているのである。 言わずもがなではあるが、忙しい人にとって手帳とケイタイは必携アイテムなのだ。 私の場合、予定や約束事はカレンダーに書き入れてお終いである。 打ち合わせ納品などの仕事の予定は工房のカレンダーに、PTA関係など仕事以外の用事は家のカレンダーに。しかしカレンダーは持ち歩けないので、出先で予定を聞かれると、困らない訳ではない。頭の中にカレンダーを思い浮かべて、その日何か書き込みがなかったか考えたりしている。 それでも、このやり方でこれまで何の問題もなくやってきたし、いまのところ予定が重なって混乱するほど多忙ではない。きっと手帳を買っても、ほとんど真っ白で見ないに決まっている。 冒頭の会合も、冷蔵庫に貼った大きなカレンダーにしっかり書きこんでおいた。そして昼の間はちゃんと憶えていて、気に掛けていたのに。 受話器を置いたあとカミさんが、「あー、嘘つくの苦手」と吹き出し笑ったので、「オレはそういう嘘、けっこう得意だがな」などと減らず口を叩き、照れ隠しをしたのである。 |
Oさんの絵:2006年11月16日 |
「いいものは必ず売れる。まず俺が買う。」 そう言い放ったのは画家の靉嘔(アイオウ)である。正月元旦の新聞にこの言葉を見つけて、なるほどと唸ったのは、もうかれこれ15年近く前のことになる。 若い作家たちへの励ましに書いたのか何だったのか、前後の文章はもう忘れてしまったが、このフレーズだけが心に残った。 当時、神奈川の工房で働いていた私は、そろそろ独立しようかどうかと思案中であった。果たして自分の作る物を買ってくれる人が現れるのだろうか。何の当てもなく自信が持てなかったとき、こう言ってくれる人が世の中に一人でもいることは、何とも嬉しかった。 そうか、いいものを作れば買ってくれる人がいるのだ。少し前途が明るくなった気がしたのである。 絵描きのOさんは群馬に越してきてから知り合った方で、歳は70をちょっと越えたあたり。出た大学が同じというのと、住まいが近くなのでお付き合いをしてもらっている。 額縁に入ったいわゆる油絵的な絵は一切描かない人で、何十年もずっと現代美術ひとすじである。5、6年前にはじめてお宅におじゃまして拝見したときから、作品が好きになった。変形のキャンバスに明るい色彩の作品が多い。うまく説明できないがセンスを感じる絵である。 私もかつて絵を書いていた時期があるので、少しは見る目があるつもりだが、こんないい絵描きさんが、地方の町にいてひっそり森の中に住んでいるのが不思議なくらいの人である。 先月そのOさんの個展があり、拝見していたら隅のほうに掛けてあった小さな作品がどうしても欲しくなった。 実をいうと、もう何年も前から、一点ぐらい持っていたいとぼんやり考えていたのだが、なかなか機会が巡ってこなかった。そう度々個展をやられるわけではないし、今日こそはどうかな、なんて家を出る前に密かに考えていたのである。 これと思ったのは25センチ角ぐらいの小品で、鮮やかな青と黄色の作品。キャンバスと板材とを使って、少し立体的に構成している。 思い描いたとおりの作品が目の前にある。買えない値段ではない。ただ絵を買うなんて初めてのことで、どきどきである。わたしの場合、身の丈に合わぬことをしようとすると平静さを失うのだ。 個展会場は初日だったので、Oさん夫妻はもちろん、他に知り合いも来ていた。元来、派手なことは苦手。絵を買いますなんて、その場ではどうしても切り出せなくて、まごまごしているうちにもう閉廊の時間である。みなさん帰り始めるので、私も一人残るのは変だし、お礼を言って画廊の外へでた。 車に乗り込んでから、「なんだ買わないのかよ。」って自分に問いかける。 「また次の機会?」 「・・・・」 迷ってるうちに、大通りへ出てしまった。自分の運転する車はお構いなしに家路に向かっている。 「どうすればいい。引返すべき?。でももう遅いか。」 「そうか、電話。今すぐ電話で、あの絵買いますって伝えればいい。」 画廊の番号はDMハガキに載っているはずである。 「お金は振り込みます。作品はまたあとで取りに行きます。」って。 |
空欄:2006年9月30日 |
工房の前で車が停まる音がしたので、入り口に出てみると大きなパネルを抱えた男が駆け寄ってきた。 「甘楽木工房さんですよね」、髪を伸ばしたフリーターといった感じの若者である。 こちらの名前を確認してから、 「今度こんなのを作るんですけど、名前を入れてもいいですか」そう言って、抱えたパネルを目の前に差し出した。 全紙大の厚紙に、道路と建物が黒いフェルトペンの線で描かれている。稚拙な感じの手書きの地図である。 唐突で何のことか判らず突っ立っていると、「ここんところに地図の看板があるんですよ」と絵の中の交差点を指差した。あたりの店の名前からすると、どうやら隣の小幡の商店街らしい。 そう言われてみれば、そのあたりに地図の看板があったような気がする。 ブロック塀や金網のフェンスに貼り付けられた商店街地図。抱えてきた厚紙はその下絵なのだろうか、道路の線の両脇に店が何軒か並んでいて、その枠内に一軒一軒の屋号が書き込まれている。 「今度こっちの方まで地図を延ばしたんですよ」。 商店街から1kmほど離れた工房まで、地図の中の道を引っ張ってきたらしい。画用紙の端近くに四角い枠がふたつ、ウチと隣のNTT無人交換局とが離れ小島のように書かれている。 工房のまわりは住宅と畑ばかり、地図に入れるような店が無いので、商店街から白地に描かれた道路だけがやけに長い。 何のことかやっと飲み込めたのだが、それにしてもいきなり過ぎではないか。 ふつう事前に電話で連絡を入れるとか、飛び込みならまず何とか広告社の何某ですと自己紹介するとか、名刺を差し出すなり何かあるだろう。そう思ったが、世の中いろんな人がいるのだ。 さて看板に名前を入れてくれるのは結構だが、この目の前に突っ立っている若者は何しに来たのか。屋号の確認ではあるまい。答えは営業に違いない。 「で、それはいくらかかるの?」と聞いたら 「千円です」との答え。 また随分安い。都会ならまだしも片田舎の商店街で、店が百も二百もあるわけではなし、一軒千円ずつ集めても大した金額にはならない。それで本当に看板ができるんだろうか。いぶかりつつも、 「それは、いま払うの?」 「ええ」 まあ千円ならお付き合いしてもいいか。一旦は払う気になったのだが、いきなりやって来て紙一枚見せられただけで、果たして信じていいものかどうか。金だけ集めてそれっきり、なんてこともあるかもしれない。 迷ったあげく 「やっぱりウチはいいわ。そっちのほうから来る人はたぶんいないだろうし」と言ってお断りした。 「そうですか」、若者はあっさり引き下ると、 「こんど近く通ったら看板見てください」そう言い残して、来た時と同じに小走りに帰っていった。 (ウチの車には付いてないが)世の中カーナビの時代である。ケータイがあれば迷っても道順を教えてもらえるわけで、はじめて来る人に地図を送りましょうかと言えば、ナビがあるから行けるという答えが返ってくる。 そんな時代に手書きの商店街地図看板、一軒千円也が果たしてビジネスとして成り立つのかどうか、疑問はふくらむのである。 そもそも看板の話は本当だったのだろうか。まだ今のところ確認に行ってないのだが、新しく書き替えられた看板があったとしても、千円払わなかったウチの所は空欄だろうから、それはそれで面白くないのである。 |
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