棺おけ:2004年8月30日
 暑くて、忙しかった夏が終ろうとしている。深夜のオリンピック中継に入れあげることも、ついぞなかった。
 いま「ぐんまユニット」の展覧会が終って、ホッと一息といったところである。
 民間にしても公共でも、展覧会の申し込みは一年前という所が多い。主催者にとっては会場が決まったときが展覧会のスタートで、それから会期がくるまでは、いつも宿題を鞄に入れて持ち歩いているような気分で落ち着かないものだ。
 ときどき取り出しては難問とにらめっこし、また鞄にしまうという繰返しの一年である。会期が終ればささやかな開放感がある。

 展覧会は、おかげさまで盛況でした。5日間で千人ちょっとの来場者があった。しかもサッと観てサッと帰るという人は少なくて、じっくり観ていく長時間滞在の方が多かった。それが何よりうれしい。
 土・日は人が特に多く、わたしの接客(と言えるかどうか)も忙しくて、せっかく来ていただいたのに話もろくすっぽできないまま失礼した方がいたと思う。
 またこれはほんとうに困ったことなのだが、人の名前が覚えられなくて恥しい思いをした。何度かお会いして顔は知っているのに名前が出てこないだとか、間違った名前を呼んでしまったりで、申し訳なかった。
 名前を覚えるいい方法がないかと、いま真剣に考えている。

 工務店をやっている知り合いによれば、むかしは朝「おはよう」と言ったきりで、一日口も訊かず仕事をし、日が暮れれば「おつかれ」と帰っていく職人がいたそうだが、腕が確かならそれでも構わなかったのだろう。 今の時代は説明責任もあれば、多少の自己PRができないとこんな仕事も続かないかもしれない。今回もたくさんの人とお話をした。

 そんなひとつ、Sさんは知人の奥さんで、歳は私より10ほど上ではないか。最近母上を亡くされたらしく、当然のことながらそのとき棺おけが必要になった。Sさんによれば「毛布でくるんだっきりでは、焼いてくれない」のだそうである。
 そこで葬儀屋さんの持ってきたカタログを見ると、棺おけ代8万円ナリとある。たぶん上はキリなく高いものがあるに違いないが、それにしてもたった一回きりのことに、もったいないではないかというのがSさんの弁である。
 Sさんは続けて、ふだん家具として使えて、いざのときは棺おけに早変わりするような、本棚でもサイドボードでも、「作れば、欲しい人はいっぱいいるわよ」という提案である。愛着のある家具として使って、棺おけにもなるなら「倍出してもゼンゼン惜しくない。」
 ポイントは、人間が入れる大きさであること。釘や金具が使ってあると後で火葬場の職員の方に迷惑だろうから、金物は使ってないか、簡単に取り外せるようになっていること。

 「そうですよね」、「考えときます」と言ったものの、どこか度胸のいりそうな仕事で、気の小さい私向きではない気もするのである。

  
 西牧小:2004年7月24日
 西牧(さいもく)小学校は群馬の西のはずれにある山の学校だ。
 長野県の佐久に抜ける国道を、峠の手前で右に入ると、旧街道の宿場町らしき家並みが現れる。しっとりとした佇まいのその通りを抜けると、いくらか高台になったところに小学校が見えてくる。
 ゆるい傾斜の土地に、広い校庭とちょっと小さめの校舎は、後ろに大きな山を背負って静かである。

 そこで4年生の担任をやっている若いY先生が知り合いという縁で、子供達に家具作りのはなしをして欲しいと頼まれた。以前テレビで見た授業の出前みたいなものだ。
 もちろんボランティアなのだが、そんな声を掛けてもらうのも滅多にないことだし、ちょっと鼻が高いような、満更悪い気はしないものだと今回思った次第。
 4年生全員で13人、まあこれくらいの人数なら自分でもやれるかなと引き受けた。1時間目は木について、2時間目は家具作りについてスライドを見せながら話すことにした。そして午後はワークショップつまり木工体験の授業で1時間の予定だ。
 事前の打合せで、ゆっくり喋るようにとY先生から要望があった。4年生ぐらいだと、人の話を聞きながら要点をノートに書くという作業が、まだすらすらとは行かないらしい。こちらが一方的に話してもついて来れないわけだ。

 授業の始めは挨拶から。その日の当番の子が号令をかける。このあたり学校という所は今も昔も変わらない。
 元来子供好きなので、子供相手のパフォーマンスなら世間の大人よりは上かも、と独りよがりな自信はあったのだが、やはり第一声はちょっと照れ臭かった。教室の暑さ以上に汗が出る。
 簡単に自己紹介をしてから本題に入る。
 中には木とか家具には関心のない子もいるはずだが、みんな退屈せずに聞いてくれる。木はこんなに身近にあっても、それについて教わったり詳しく聞いたことがないので、(たぶん誰がやっても)木の話は面白かったのではないか。途中から校長先生も聴衆に加わって、ますます汗が流れる。
 子供は正直で、話に退屈しだすと態度に出るのだ。見ているとそれが判るので、そんな時は話をはしょって、こちらから質問を投げかけたりしてみる。なかなかのテクニシャンだと我ながら感心する。
 時間配分を気にする余裕はなかったが、用意した話しは一通りすることができて、最後に質問に答えて、午前中が終った。

 そのあと机とイスを並べかえ、みんなと一緒に輪になって給食を食べた。何十年ぶりの給食?。
 白いトレーの上に黄な粉のパンと牛乳とウインナ−、それに野菜のスープと洋梨のデザート。何だか急に「人生だな」っていう思いがする。

 午後は小さな箱を各自で作ってもらう授業。とはいっても短い時間で木工経験もない子供達だから、あらかじめ工房でキットを準備しておいて、当日は組みたてをしてもらった。誰がやってもうまくいくように作ってきたつもりだが、個人差はなかなかのもので、説明をしている間に出来てしまう子がいれば、手取り足取り教えないと出来ない子もいる。

 終ったあと校長先生から「始めての授業とはとても思えなかった」と、お褒めの言葉をいただき、丁寧なお見送りを受けて工房に帰った。
 夕方までまだ時間があったが、もう仕事をする気にはならない。工房の板の間にごろんと寝転がると、ハイテンションな一日のことが頭の中をめぐった。そのまましばらく眠った。

 
 桐の花:2004年6月7日
 近くの空き地に大きな桐の木が横たわっている。ふた月ほど前のある日、通りかかったら切り倒されていた。切り立った斜面際の土地に、植えられたのではなくて、自生したものだろう。
 横倒しにした幹のとは別に枝は枝で集められて、ひとまとめになっている。何をするつもりなのか通るたび見ているが、どうするという様子もない。

 幹の切り口は径40cmほどあるが年輪は遠目にも荒そうで、樹齢は10年そこそこか。桐はずいぶん育ちのいい木である。「桐」の字からして「木」と「同じ」と書くぐらいだから、どちらかといえば草に近いのかもしれない。
 毎年、春の終りごろに薄紫色の花が咲いた。桐の花を手が届くほど間近で眺めたのは、それが初めてだったかもしれない。花札にある桐の絵とは少し違っているような気がする。下に「任天堂」とか、どう読むのか知らないが「別製張貫」とか書かれているあれである。桐は地味な札であるが、ほんとうの花はそれほどでもない。

 去年の2月ごろ、観ておきたい展覧会が東京であった。ちょうど花粉症の時期で気分的に晴れぬものもあったが、マスクをして電車に乗った。
 昼間の高崎線は人もまばらで、窓際に座ってぼんやりと景色を見ていた。
 高崎を出てしばらくすると、電車は神流川という県境の川を渡る。
 鉄橋から見下ろす冬涸れの川は、か細い水流が端に一筋あるだけで、あとは丸石を敷き詰めただだっ広い河原が、白く光りを反射していた。

 渡り始めてすぐ、河原の真ん中に大きな流木が一本横たわっているのが目に止まった。川砂の上、上流に根っこを向けている。台風かなにか大水のときに根こそぎ流されて来たらしく、葉っぱこそもう付いてないが、枝も根っこも先端までそのまま。博物館で見る恐竜の骨格標本みたい。スゴイと思ったが、わずか何秒間かのことである。電車は橋を渡り終え、視界から流木は消えてしまった。
 窓の外は素っ気ないぐらいの青空だった。
 そして空想した。
 雨の降りしきる夜である。増水した川が濁流となって土手をえぐり始める。水かさは増し、やがて堤に根を張った大木を土を掴んだままなぎ倒し呑み込んでしまう。そんなシーンがリアルに浮かんだ。
 それからあれをもう一度しっかり見てみたいという考えが頭をもたげたのである。

 東京から帰って、2、3日経ってからだったと思う、またそれを見にいくのだから私も暇である。大人げないというか、平日の昼間っから仕事もせずに気が引けたが、言い訳をすればその日は朝から風邪気味だったのである。天気もいい。
 地図で調べたら川は車で1時間ほどの所だ。

 どこから河原に出られるのか少し道に迷った。行きつ戻りつし結局堤防の脇に車を止め、土手を駆け下りた。草の道を小走りに行くと、白く光る河原に出て一気に視界が広がった。お目当ての流木が100メートルほど先に横たわっているのが見える。
 人っ子ひとりいない河原の、橋の上から見るよりはずっと大きくて歩きづらい石の上を、飛び飛びに歩いた。
 程なく行きついて対面した木は、流されてそれほど月日が経ってないのか、樹皮などもまだ若々しい。桐の木だった。
 
 横倒しの太い幹に登ったり、持ってきたカメラで写真を撮ったりして20分ぐらいそこに居たろうか。耳をつんざく音に顔を上げると、鉄橋を高崎線が渡っっていく。あの車窓からここを見ていた。一瞬、時空が反転し、こっちを見ているような気がした。

 箇条書き:2004年5月7日
 前回書いてからもう二ヶ月、そろそろ何か書かないと。
 5月の朝、曇り空を見上げてそう考えたのだが、これといって書くことが思い浮かばない。すっかりネタ切れである。
 こういうとき、たとえば売れっ子のモノ書きだったら、海外へ旅に出るとか、有名人の集まるパーティーに顔を出したりしてネタ作りをするところだろうが、私の場合ときたら、家と工房とを往復するだけの毎日である。
 何か目新しいことといっても、役場前の道の舗装が新しくなったとか、蒟蒻畑の消毒がそろそろ終るとかで、書くほどのこととは思えない。

 じつは4月に入ってから、新潟の三条まで納品に行った話を書き始めた。
〈朝からの雨が、県境のトンネルまで来ると雪に変わった〉というのがその書き出しで、どこかで読んだ台詞のような気がしないでもないが、我ながら格調高かった。しかしその後がうまく続かない。
 行きつ戻りつしばらく格闘したのだが、結局断念したいきさつがある。文章を書くのはつくづく難しいと思う。うまくまとめようするとたぶん余計に難しくなるみたいだ。
 そこで今回は、楽する方法を考えた。難しく考えずに、ただ思いつくまま何でも箇条書きにすればいいではないかと。以下がそれ。

・去年の11月からだったか、大竹さんが工房へ「見習い」に来ている。まだ大したことはできないが、力仕事など助かる。いままで独りでやっていたことも二人でやると楽々だったりする。面倒臭いことは押しつけたりして、親方風を吹かしている。

・木工を勉強したいとか、工房見学をさせて欲しいというような学生さんからの問い合わせがある。1月ごろからちょくちょく続いていたが、4月に入ると沙汰止みになった。時期ってある。

・新潟へ納品に行ったとき、お客さんと高速のインターの出口で待ち合わせた。着いたら先方の携帯に電話を入れるという約束だったが、何回電話しても出てもらえないのはあせった。地図も住所も聞いてないのに。マナーモードにしていて気付かなかったとか。わたしには携帯がない。

・2月の木工クラフト協会展のあと、20人いるメンバーのうち携帯を持ってないのは僕と斎藤さんの二人だけだと、斎藤さんから打ち明けられた。僕も買わないから、斎藤さん、買うのやめようよ。

・ことしは2月のクラフト展のほか、7月と8月にもグループ展がある。なぜか場所は三つとも同じ高崎シティーギャラリー。この夏はシティーギャラリーで涼む。

・カミさんが〈13歳のハローワーク〉という本を買った。家具職人も載っている。「現在、家具職人は人気職種の1つであり、目指す人が増加している…、生計を立てることができているのは、数百人程度である。しかし…今後手作りの家具に対する需要は増加していくことが見込まれる」とある。ほんとうだろうか。

・工房で飼っている犬はもう17歳で、衰えが目立つ。毎朝欠かさなかった散歩もこの頃は大変そうで、100mほど歩くとゼイゼイ息が上がってしまうこともある。おかげでこちらは運動不足。そこで先日、犬を連れずに30分ほど散歩をしてみたのだが、忘れ物をしたようで何だか変だった。

 
 二之宮:2004年3月7日
 このあたりで材木を扱ってる人には「二之宮」といえば富岡市の原木市場のことで、毎月10日と25日が市日である。
 原木市といえば材木組合の運営が多いなか、ここは珍しく民営である。そのためか、一般にいう入札権がどうのこうのとか、供託金を出すといった面倒がなく、行けばだれでも競りに参加できる。競りで一番高値をつけた人がその丸太を買う、そういう分かり易さもあって、来る客も材木屋、製材屋に限らず、大工、建具屋から、数は少ないが家具、指物、太鼓、こけし作家まで幅広い。ずいぶん遠方から来る人もいた。私も毎回というわけにいかないが、原木が出まわる冬場は、なるべく顔を出すようにしている。そして、気に入った木があれば買った。

 ただ私が二之宮へ行きだしたのはここ2、3年のこと。誰でもとは聞いていても、なかなか入って行きづらいもので、たしか最初は知り合いの材木屋に連れて行ってもらった。古株が多いここではまったくの新参者である。
 毎月二回、集まって来る常連さんに混じって、競り子と客の掛け合いを聞きながら競りについてまわった。客のほとんどがお互い顔見知りということもあって、競りは和気あいあいといった雰囲気で進む。冗談が飛び交う。

 みんな木が好きという一点では共通している。高値のつきそうな銘木や、あまり見かけない珍しい木のところには、自然と人が集まって品評会が始まる。めいめい好き勝手なことを言うのだが、そういう輪に入ることで、丸太の見方も少しは判ってくるのだった。
 また、材木屋のご隠居のような人が、近くにいる人をつかまえては、こういう木はどうだこうだと喋っている。そんなうんちく家がたくさんいて、まだ若いほうのわたしには、学校のように有難かった。
 
 そんな二之宮がやめるという話を、2月の10日の市があってしばらくあと、やっぱり市場でよく声を掛けてくれるこけし屋さんが電話で教えてくれた。まだ公表はしてないが次の25日が最後の競りだというのである。なんとも急なことで驚いたが、市場の社長が昨年病気で倒れて以来、ずいぶん悩んだあげくの決断だという。すぐ知り合いの材木屋に確認すると、どうも間違いない話らしく、近年の材木需要の低迷を考えれば、後を継ぐ人も出てこないだろうということだった。

 25日の最後の市は通知が行き届いたらしく、さすがにたくさんの人出で100人近くいたのではないか。最後の別れを惜しんで、いつもの2、3倍の人が駆けつけた。
 午後1時からの競りの前に、リハビリ中の社長さんが挨拶に立った。普段見慣れないスーツ姿、土場に丸く出来た人垣の前で、思ったより元気そうな声を張り上げた。
 社長さんはこんな時でも話が湿っぽくならないよう、持ち前のサービス精神を発揮し、冗談と下ネタを思いっきり混じえて、こうなるに至った経緯を説明するのだが、搾り出す声が途中途中涙に詰まり、だれも笑えないのだった。

 そのあといつもと変わらずに、ただいつもよりほんのちょっと景気のいい競りがあって、40年続いた「二之宮」が幕を閉じた。
 せっかく通い始めた学校が突然閉校になったような、いまそんな寂しさでいる。

 ラブラドール:2004年2月20日
 日曜日、高崎市の郊外を車で走っていたときのこと。後ろに着いた車の助手席に、大きな犬が乗っているのがルームミラーで見えた。あれって確か、ラブラドール?運転席の後ろでゴロゴロしている犬好きの子供に聞いたら、やっぱりラブラドール。犬はかなりの肥満体みたい。気難しそうな男が運転している。
 その車、しばらく後ろにいたのでミラーでチラチラ見ていたが、やがて道路が二車線になると、スピードを上げて走り去った。
 型の古いワンボックスタイプのバン。4WD。助手席には太ったラブラドール犬。あれ、ちょっと待てよ。それって大川クンじゃないの。しばらくしてから気付く。
 待て待て。あわてて追いかけたら、信号待ちをしているのに追い着いた。すれ違いざまに運転席を覗くと、やっぱり大川クン。同業の人である。
 大川クンはふだん眼鏡をしてないのに、運転する時は掛けるんだ。判らなかった。

 このごろ、そんなことがときどきある。
 あるとき、友達と遠くのコンビニの駐車場で待ち合わせをしたら、当人はちっとも来ないのに、向こうから知り合いが偶然やってきて「あれ、どうしたのこんなとこで?」なんてことがあった。
 打ち合わせに行った先でホームセンターに寄ったら、やっぱり大川クンとばったり、とか。
 顔見知りと車ですれ違ったり、なんてのはしょっちゅう。スーパーで買い物中の友達を見つけたり、展示会で久し振りの人に出あったり。そのたび「あれ、どうしたの?」。「やっぱり群馬は狭いね」なんてことを言い合ったりする。
 
 たいして出歩いているわけでもないのに、そんなふうに人に合うことが多くなった。それだけ知り合いが増えたということか、群馬に越して、あっという間の10年が過ぎた。

 木ベラ:2004年1月11日
 正月に実家の小屋で捜し物をしていたら、懐かしいものを見つけた。古ぼけたただの棒っきれのようにもみえるそれは木製のヘラで、微かに見覚えがあった。毎年の暮れの餅つきのとき父親が使っていたヘラ、長いこと使ってないのによくまあ残っていたものだ。

 当時、近所はどこも暮れになると餅つきをした。まだ餅つき機のないころのことだから、臼と杵がどの家にもあった。
 たいていは暮れの30日につくので、翌日の大晦日の朝には、たっぷりと水を吸った欅の臼が家々の庭先に陰干しされていて、それを見ると子供ながらに、いよいよ正月かという気がしたものだ。

 うちでは餅つきのとき、鏡餅や雑煮用の餅などと一緒に、アンコの入ったボタ餅を少しだけ作った。
 見つけた木のヘラは、そのボタ餅を作るとき、アンコを鍋から適量すくいとって、左手に広げた餅の皮にのせるのに使ったものだ。そのとき以外家で見掛けたことがないので、アンコ専用のヘラだったのだろう。
 そのせいで今も先の方がうっすらとアズキの色に染まっていて、そこばかりは味が沁みて美味しかったのか、虫が食った穴がふたつばかり空いている。小さな針先ほどの穴である。

 実は父は若いころ大阪の餅屋で奉公をしたことがあった。幾年やったとか詳しい事は結局聞かず終いだったが、つき上がった餅を千切る手さばきや、鏡餅を形良く整える腕前はさすがに玄人はだしだった。お声が掛かって、よその餅つきなどにも出かけるような事が度々あった。

 ヘラは親父の手製らしい。
 長さ40センチあまりの栗の棒を、長い握りの部分は細く、先端の匙のところは平べったく、削ったというよりは鉈(なた)ではつって作っている。何の仕上げもしていない、はつりっぱなしで、擦れて角が少し優しくなったとはいえ、鉈の刃が走った痕が今も見て取れる。小気味のいい出来ではあるが、餅屋の道具にしては作りが荒っぽい気がしないでもない。

 手の起用だった親父のことだから、その気になれば切出し小刀でも使って、もっと綺麗でスマートなヘラを削り出すことができたろうに。でも大急ぎで作ったとりあえずの道具がそれきりになることはよくあることだ。
 いやそれとも、却ってごつごつしてるほうが、ヘラが掌の中で遊ばなくて使い勝手が良いということもあるか、などと考えたのだが詮の無いことだった。
 
 
 子供イス:2003年11月10日
 子供のためにイスを買った。
 ウチの子はこれまで回転式の事務イスみたいなモノでご飯を食べていた。大人用のイスにはまだ背丈が足りなくて、これなら高さが変えられるのでいいかと。
 しかし、食べている姿勢がどうにも悪い。見かねて「ヒザ立てるなぁ」とか「そのヒジ」とか、つい言いたくなったものだ。ところが最近、これはイスも悪いのではないかということに、遅まきながら気付いて、何とかしてやろうということになったのである。
 即「買おう」と決まった。ここは家具屋なんだから「作ってあげてよ」とはウチの場合ならなかった。

 前例がある。何年かまえ、カミさんに台所で使う収納棚を頼まれた。今度作るからと待たせておいて、ずっとそのままになっていた。それを今年になってある日突然「もう、今日こそ買うからね」と、ホームセンターに連れて行かれたのだ。スチール製で組み立て式のを、こんなのみっともないよと思いつつ、一気にふたつも買う羽目になったのである。

 料理人は家へ帰ると料理はしないと聞いたが、自分の家の事になると腰が重いのはどうしてだろう。
 家で使っている食器棚や洋服ダンスは、むかし買った既製品である。下駄箱は貰い物で、今これを書いている座卓や、二階の子供机や本棚は、自作とはいえ、私が木工を習い始める前に趣味で作っていたころのものだ。
 しかしまあ、紺屋の白袴という言葉もあるではないか。

 ちょうどそのイスの話がでたころ、保育園のための食卓イスを数脚、制作中だったのではあるが、こちらはゼロ歳、1歳児用で高さを固定してしまっていて、ウチの子にはもうさすがに小さすぎた。
 注文したイスは、座面と足載せの高さが成長に応じて変えられるやつだ。大事に使えば大人になるまでこれでいけるはず、よそで何度か見て知っているイスとはいえ、来るのが楽しみである。

 届くまで何日かかかった。
 家具にしろ何にしろ、楽しみなものが手元に届くまでの間というのは、何とはなしに体がふわふわしたような気分、そう思ったのは、最近たいした買い物をしてなかったせいもある。
 また届いた梱包を解く時の、ちょっと不安まじりのワクワクした感じも久しぶりの気がする。これは子供のころ、買ってもらったプラモデルの箱を開ける時と変らない。
 イスはダイニングに置いてみると、まあまあの雰囲気だった。僕にも何か一脚欲しいと、自分の仕事を忘れて駄々をこねたくなった。

 
 営業:2003年9月22日
 5、6年前、ある自動車メーカーの系列店で中古車を買った。
 しばらくすると、同じメーカーの新車担当の営業マンがウチに来るようになった。あるいは昼に夜に電話をしてきたりした。
 お車の具合はどうですかに始まり、次の車検は是非ウチでやらせて下さい、そろそろ任意保険の書替えの時期です、等々。そのうち、こっちが本題なのだろうが、新車はどうですかと言うような話を、年末や決算期のような節目にしてくるようになった。
 そのたび連れない返事で断っていたが、先方も簡単には諦めない。しぶとく食らいついてくる感じがあったので、家ではスッポンのAさんと呼んで警戒した。と同時に、車の営業というのはたいへんなものだと感心もしたのである。

 無駄話をもうひとつ。
 法事で関西の実家に帰ったとき、居合わせた電気屋さんの若社長と、どういういきさつだったか営業の話になった。
 私が、電話やメールで家具の問い合わせがあれば、すぐ返事はするようにしているんだけど、大抵はそれきりで返事もこないことが多い、というような話をした。
 それではあかんで、と若社長。氏によれば営業は宗教の勧誘と同じようなものだと。
 つまり、ウチの店で買うことがお客さんにとっては最高の選択やと、自分は信じている。ウチで買わんかったら、お客さんはえらい不利益をこうむることになる。そんな目にお客さんを合わしたくないと思えば、一度断られたぐらいではへこたれない。二度三度と足を運ぶんだそうである。
 またこの辺(関西)では逆に、一回きりで放り投げておくと、あんたんとこは営業に気が入ってないと、お客さんから小言を頂戴することもあると。
 なるほど、である。

 先だって、建築家久保田さんのオープンハウスを手伝った。新築住宅の完成見学会である。私が参加したのは、その家の造り付けのダイニングテーブルをウチで作った縁もあるが、家の中が引っ越し前のがらんどうなので、家具があったほうがサマになると言うことがあって、頼まれて在庫の家具を幾つか持ち込んだのだ。それに、これから家を建てようかという人が見に来るのだから、私にとっても何よりの営業機会な訳である。

 来場者はやはり、見たところ30代ぐらいの、小さな子供連れの夫婦が多い。
 話をしてみると、いま建築プランをあれやこれや思案中の人や、自分に合った建築家を捜している人、初めて参加した人もいれば、こういった会をすでに何回もまわっている人もいる。
 建築家に家を頼むのだから、頼む方もそれなりに研究に余念がない。営業マンが持って来るカタログの中から、外壁はこれ、床材はこれ、玄関ドアはこれ、と選んでいけば家が出来るやり方もあるが、それでは物足りないという人たちである。
 
 新聞で取り上げられたこともあり、見学会はかなりの盛況だった。
 説明に大忙しだった久保田さんに、「たくさん設計依頼が来るかもしれませんね」と水を向けると、「いや、今までの経験では、そんなでもないんですよ」とのことだった。また来年もやるのでよろしくというはなし。
 日が暮れてお客さんが皆帰ったので、私たちのささやかな営業活動もお仕舞いということになった。
 
 雑誌掲載:2003年8月18日
 あまり目立つようなことは、もとより好きではないが、かといって人知れずひっそりというのもどこか寂しい。世間の耳目を集める、とまでいかなくても、少しは認知されたいと人並みには思う。
 こういう仕事はお客さんあってのものだからなおのこと、世の中に知られていた方が何かと好都合なのは間違いない。
 雑誌に載るというのは費用もかからず効果も高い、とは前々から考えていた。しかしそうはいっても、何のツテもなければ、自ら売りこみに行く度胸などとても持ちあわせないのだから、諦めるより他ない、そう思っていた。
 じつはインテリア雑誌などへの掲載のお誘い電話が、年に一回ぐらい、あるにはある。しかしみんな有料記事と呼ぶのか、載せて上げますから幾らかのお金を払って下さいと言うものばかり。お断りしていた。

 ところがある編集会社から取材したいと話が来たのは5月のこと。
 世のなか奇特なところもあるもので、よくもまあワタシのことなど見つけ出して下すったもんだと、感激することしきりであった。
 とある企業が顧客向けに配る小冊子だという。書店売りはないらしいが、表紙をめくったところの見開きだという。いやはや何ともありがたいことである。

 東京から取材に来られたのは6月の初めで、編集者とカメラマンとライターといって文章を書く人と三人。朝、高崎駅前で落ち合って、私の作ったものが幾つか置かれている花屋さん、そして町の図書館から工房と案内して、取材は一日がかりだった。
 工房では、これでもかというぐらい顔写真を撮られた。
 若い頃はそうでもなかったが、最近では写真に撮られることが嫌。何かの集まりの時など、撮ってあげるからと促されても「オレはいいから」と逃げていた。同じようにカラオケのときも逃げる(これは余談)。
 今回で、写真はもう一生分撮ってもらったと言ってもいい。

 雑誌の編集や校正、印刷というのはなかなか時間の掛るものらしく、出来上がってきたのはつい先日のこと、すでに8月の半ばである。
 途中、送ってきた下刷りをファクスで見ているが、改めてカラーの誌面を眺めると、なんだか晴れがましさと恥ずかしさとが相半ばして、複雑な気分。見れば見るほど気になるのは、もっと(頭に)毛があった筈なのにとか、あの時着ていったよそいきのシャツちっとも似合っていないとか、我が容姿ばかりなのだ。
 Yさん:2003年7月22日
 Yさんは「オレも八十過ぎたんだよ」と言うが、とても八十過ぎには見えない。小がらで話し好き。背格好が死んだ親父にちょっと似てなくもない。
 知り合いといっても、Yさんとはたまに材木市場でいきあって、立ち話をするぐらい。それ以上の付き合いはなかったが、今回材料を譲ってもらうことになって、初めて仕事場におじゃました。材木屋さんではない、同業の人である。

 いま長さが2間(3.6m)近くあるテーブルを頼まれていて、うちのストックには見合うような長さと板厚のものがなかった。それでここしばらくその材料を探していたのだ。
 見つかる時は簡単にあるものだが、今回はどういう訳か材料探しが難航した。方々当ってみても、値段も含めて丁度いいものがなかなか見つからない。
 そこで最後に思い浮かんだのがYさん。Yさんは木工屋だから当然材木のストックをしているのだが、頼まれれば仲間に売っていると聞いていた。電話をしたら、「見に来れば」と言う返事だった。

 仕事場とは別に、材木置き場の倉庫を借りているとのこと。
 行ってみると、あるわあるわ、かなりの量で、しかも長くて大きな板が多い。
 私でも材木の積んだり降ろしたりは二人掛りでやっている。
 「フォークリフトなしで、一人じゃ木の取り回しがたいへんでしょう」と聞くと、ゆっくり時間をかけてやれば独りでも出来るという。逆に、手伝いがいると自分のペースで出来ないので嫌だとのこと。これにはちょっと驚いた。
 それと、こんなにたくさんの材料をYさん、生きてる内に使いきることができるのかと、余計な心配が頭をもたげた。なにせ八十過ぎである。
 ところがYさんいわく「先が短いし(丸太を)もう買わんでおこうと思うんだけど、市場へ行って木ィ見ると、今でも買っちまう」らしい。
 彫刻家の平櫛田中が、百歳を超えてなお、将来使うための原木を買っていたという逸話があるが、それを思い出す。
 話し好きのYさんは、倉庫を案内しながら「この板は、文机にしようと思うんだ」とか「これは座卓用に、これはこのまま玄関の敷き台になる」と、先々の予定を教えてくれるのである。

 後日、お施主さんと設計屋さんと私の三人で改めて訪ね、4メートルの栗の板二枚を分けてもらうことにした。
 用があって帰り際にYさんの自宅へ寄ると、少し古びた家の脇に、一本のケヤキがそびえているのが目に着いた。丁寧に枝打ちされていて、あと二、三十年もすれば、いい大黒柱が取れそうな真っ直ぐな樹である。聞けば、自分で植えたものだとYさんが得意そうに言った。
 さてはYさん、あのケヤキも自分で使うつもりなのかと私は勘ぐったが、どうなのかは聞かずじまいだった。Yさんのことだから案外その気でいるのかもしれない。

 刃物研ぎ:2003年6月17日
 高崎市の郊外の、家並みもそろそろ途切れて田んぼや畑の混じる辺りに、〈刃物研ぎ致します〉という張り紙が出ている。
 くすんだ壁の、ありふれた民家である。毎週決まって通る道路端で、最近になってからだろうか、以前は見なかったような気がする。
 白い紙に手書きの文字。張り紙は雨に濡れない様に、ビニールでくるんである。
 刃物研ぎも、今はそれほど注文があるとは思えないし、片手間の仕事だろうか。

 私が小学生のころには、刃物研ぎの行商が来た。
 なぜか決まって夏に、刃物研ぎのおじさんは自転車に乗ってやって来た。
 現れると先ず、在所の中ほどにある寺の境内を借りて荷を解く。入り口の門を入って右側の、百日紅(サルスベリ)の樹の下が定位置で、そこに敷物を広げて、砥石やら水桶を並べた。
 それとどういう仕掛けだったのか、自転車の車輪の回転を利用したグラインダー(もちろん人力駆動)があった。刃こぼれをしたものはそれで、火花を飛ばしながら荒削りをするのである。

 刃物研ぎが来たのを聞きつけ、自分で預けに来る人もいるが、おじさんは準備が整うと、刃物研ぎの御用がないか、家々を聞いて回った。
 やがて両手に包丁や鉈や剪定バサミだのを携えて戻ってくるのだが、そのひとつひとつに、受け渡しの間違いがないよう、名前の書いた小さな荷札がくくり付けてあった。
 朝のうちに注文を受けて、その日のうちに研ぎ上げ、夕方にまた一軒一軒届けていく。
 夏休み中だった子供達は、おじさんの研ぐ姿が珍しくて、飽かず眺めていた。ただ、子供にお愛想を言うような人ではなかったのか、おじさんとはあまり口をきいた覚えがない。
 子供ながらに、どういった暮し向きをしている人なのか気になったのだが、そのころはまだ行商というのは未知の世界で、想像の及ばないところにいる人だった。

 そんな少年も長じて木工を生業とするようになり、刃物研ぎは日常となった。
 あれは独立をする前だったか、独立してこちらに来てからのことだったか、刃物研ぎの手伝いを頼まれたことがある。東京の近郊に住む友達が、団地のバザーで刃物研ぎの模擬店をやるので、お前なら研ぎは得意だろうと声がかかったのだ。模擬店はどうでもよかったが、そのあとの打ち上げが楽しみで出かけた。
 十数階建ての建物がいくつも並ぶ大きな団地で、各棟の間が広場になっている。そこで半日ほど店を開げた。
 包丁でも鋏でもなんでも一丁につき百円である。団地全体ではたぶん何百世帯もあるのだろうから、刃物研ぎはずいぶんな盛況で、休憩を取る間もないぐらいだった。

 そのころはまだ、この先家具作りでやって行けるのかどうか、見通しも何もない頃で(今もないが、今よりずっと)、いよいよなら車に砥石やグラインダーなど研ぎの道具一式を積んで、こういった団地を巡れば、刃物研ぎもけっこう仕事になるんじゃないか、そんなことをぼんやり考えた。
 もちろん取り止めのない空想なのだが、広場から高層住宅を見上げて、一軒一軒御用聞きに回る自分の姿を想像したのは、子供時分に見た刃物研ぎの記憶が下敷きにあったのかもしれない。

 キハダ追記:2003年6月5日
 前回キハダについて書いたら、北海道の方からメールをもらった。
 それがちょっといい話のように私には思えたので、ご本人の了解を得て、ここに転載させていただくことにした。メールを送ってくれたのは30代の女性である。
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 キハダについての日記だったので、どうしても我慢できなくなってメールを送らせてもらいます。

 私が子供の頃に、母の母、私の祖母が胃の弱い父のためにいつもどこからかキハダの樹皮を持ってきてくれました。
 父は祖母がとても良い人だったので、母の生まれたこの土地を生活の場
として暮らしてゆこうと思ったそうです。
 祖母もいわゆる北方少数民族(私は単にアイヌ民族だと思っているのですが)です。
 キハダの樹皮のことを「シコロ」もしくは「スコロ」と呼びます。それを湯に浸して暫く置いておき、黄色くなった汁をぐいっと飲むのです。
 それはそれは苦いものです。でも効き目は一番らしいです。

 私が覚えている祖母の姿で一番残っているのは、毎日の焼酎牛乳割りを飲む前にストーブのそばに座り、私のわからない言葉を話しながら、箸の一本の先に焼酎を浸し、そこから落ちるしずくを火のかみさまに捧げていました。
 これが実に毎日・毎回のことでした。
 そんな祖母の姿を覚えていられて幸せだなと思うこの頃です。

 キハダ:2003年5月22日
 肩こりがひどい。ひところ効果のあったエレキバンも、最近は効かなくなったような気がする。
 何か他のものでも試すかと、貼り薬を買った。買うときはは別段気に止めなかったが、箱に黄檗(おうばく)配合とうたっている。黄檗とはキハダ(黄肌)という木の皮から採った生薬のこと。
 広辞苑によればキハダは【樹皮の内側が黄色で苦味がある。これを黄檗といい、黄色の染色剤とし、漢方では健胃剤・火傷などに用いる。材は光沢が美しく、家具・細工物などに用いる】とある。

 3年ほど前、キハダの丸太を買った。製材してみると、確かに外皮の下は真っ黄色。絵の具のレモンイエローみたいな鮮やかさで、白太の部分も染料で染めたように黄色い。それはそれで美しかったのだが、時間が経つと色は次第に褪せて、黄土色ぐらいに落ち着いた。
 白太以外は少し黄色味を帯びている程度で、材としては品のいい木目が桑に似てなくもない。
 その製材屋に、皮をすっかり剥ぎ取られて丸裸になったキハダが何本かあった。細くてあまり使い物になりそうにない、伐るにはまだまだ早い幼木である。製材屋さんに聞くと、皮を採るために切り倒したんだろうと言う事だった。普通、皮を剥ぐときは立ち木のままで、樹を枯らさない程度に剥ぐらしいのだが。こうなると、どこか哀れな感じがしないでもない。

 以前NHKのドキュメンタリー番組の中で、キハダの樹皮を採る印象的な場面があった。一度見たきりなので、記憶が正確ではないが、こんなシーンである。
 確か樺太アイヌだったろうか、北方の少数民族の末裔である女性が、北海道に住んでいる。彼女が、その子供だか孫だかの小さな子供と一緒に、森の中を散策するのである。
 女の人は小ぶりの鉈(なた)を手に、「この葉っぱは何々に効くのよ」と言って薬草を摘む。そうやって親から受け継いできた木や草についての知識を子供に伝えながら、森を進んで行く。

 そのうち、ひと抱えほどのキハダの前に出た。
 「この樹の皮はお腹を壊したときにいいの」そんなことを言ったように思う。手にした鉈で、胸高あたりの樹皮を少しはつり取った。樹に手のひらほどの大きさの傷ができた。
 印象的なのはそのあとのこと。近くでフキのような大きな葉っぱと、長い草の蔓を採って来た。そして、立ち樹のはつり口に葉っぱを当てがうと、傷口のガーゼを絆創膏で止めるみたいに、葉っぱを草の蔓でぐるっと縛った。
 森の中の葉っぱを縛り付けたキハダ。忘れられない光景である。

 クルミ:2003年4月26日
 ときどき通る道路沿いに材木屋の土場(どば)があり、いつも丸太が何本か転がっている。通る度に、めぼしい木は置いてないか眺めているが、たいてい杉や檜だったり、普段あまり使わないケヤキだったりする。
 何かありそうな時は車を寄せて見に行くが、人が居たためしはなく、事務所はどこか別の所にあるらしい。
 先週末、そこを通りかかったら、土場に大きなクルミの木が置かれていた。クルミは何度か買っているので、車の中からでも皮肌を見てそれと分かった。
 その時は急いでいたので用が済んだ帰りに寄ってみると、やはりクルミである。思ったよりずっと大きな木だ。直径は元で90cm、末で70cm、長さは2、4mある。クルミは随分見てきたが、ちょっと見ない大きさ。まだこんな木があるんだと感心して眺めた。
 欲しくなったのは言うまでもない。ただし、買える値段かどうか。

 月曜の朝、連絡先とあったところに電話してみたが、誰も出ない。
 買い物ついでに土場に廻ってみると、珍しく人がいて、ちょうど積み込みの最中だった。お目当てのクルミは他の何本かの木と一緒に、既に大型トラックの荷台に載っている。これから市場に届けるところだと言う。

 ここの主は、材木屋さんと言うより仲買人に近い。
 今はもう県内だけではなかなか木が集まらないので、東北や長野の市場まで出かけて行って仕入れをし、このあたりの原木市場に持ち込んで売ってもらうのである。
 また別の人で、群馬の市場で仕入れをして関西方面に持っていく仲買も知っている。木は緩やかだが、東から西に流れて行く。

 荷台のクルミは売ってもいいよとのことで、値段を聞くと、主は電卓をはじいた。
 予想したよりは高い、でも出せない額でもない。
 迷うところ。考えて後から返事をすると言いいたいが、もう待ったなしの状態なのだ。
 丸太を買うのは、ほんとうに一期一会、次にまた同じものに出会うことがない。あのとき買っておけば良かったと思っても、もう遅いのである。しかしまた、買ったあとでもっといい木が出てきて、あんなの買うんじゃなかったとの後悔もままある。

 立ち話をしていて、「昔はいい木があったんだがなぁ」とこの人も言った。長いこと木を扱っている人からよく聞く言葉だ。
 そしてそれを言われると、この先細りの材木事情に想いを巡らすことになり、将来もうこんな木に出会うことはないんじゃないか、ここで買わずに後悔はしたくない、と考えは導かれていくのである。営業の殺し文句のように、それは聞こえるのである。
  
 カメラ:2003年4月3日
 納品のときはカメラを持って行って、家具を運び入れたあと写真を撮らせてもらう。もちろん条件が良ければのことで、日が暮れて暗くなってしまったり、先方が引っ越しの最中で、とても写真を撮る状態になかったりのこともある。
 
 Mさんのテーブルの納品のときは建物の引渡しの日で、家の中はまだなんにもなくてガランとしていた。撮影には好都合である。
 設計者の徳井さんや事務所の戸塚クン、もちろんMさんも来ていて、テーブルを運んだ後、めいめいがカメラを取り出して撮影会のようになった。
 見ると私以外の三人はデジカメのようである。まだ使ったことはないがあれは便利そう、などと横目でちらちらと気にしながら、自分もカメラを取り出して撮り始めた。建築関係者にとって今やデジカメは必需品と聞いたことがある。
 アングルを変えたり、退いたり近づいたりして、10枚近く撮ったろうか。

 そうやって撮影し、帰って現像プリントしても、アルバムに貼ったりホームページに載せて使うのは、だいたい10カットに一枚かよくて二枚ぐらいか。とりあえずいろいろ撮っておいて、後でその中から選ぶのだから写真は溜まる一方で、すでに引き出しの中から机の上まで、使わない反古になった写真があふれている。
 何とか整理して、と言うよりこれはもう捨てるしかないと思うのだが、仕事の写真とはいえ写真を捨てるというのは、どこか抵抗がある。もったいないというより、捨てることが習慣としてないのでなかなか捨てられない。
 その点、デジカメ画像なら私でも気安く捨てられる。そう思うのだ。

 使っているカメラは20年以上前に買ったニコンである。そのころ買ったもので今も持っているのは、いくらモノ持ちがいいとはいえ、これと黒の革靴ぐらいしかない。ただし革靴の方は、冠婚葬祭のとき以外履かないので、もって当然ともいえる。

 初めて買ったカメラだった。一眼レフだが高級機でも何でもない、どちらかといえば普及タイプの機種で、当時としても確かそんなに高い買い物ではなかった。
 20数年使えば愛用品と言えるが、とりあえず実用上に問題はないし、交換レンズなどの付属品も揃えたので、買い替えるには忍びないといったところなのである。

 気に入っているとこと言えば、このカメラ、デザインがいたってシンプル。今もそれほど古臭い感じがしない(と自分では思っている)。
 このころのカメラはまだ機械っぽいというか、技術屋さんが作ったという感じがして好きだ。
 いちおう角はとってあるが基本的に横長の四角い箱に、プリズムを入れる三角形が乗っかって、正面右に円筒形のレンズ。てっぺんにある、昔の「Nikon」の、まことに地味なロゴがアクセントで、型番を示す余計な横文字が前面に入っていないのもいい。
 一眼レフカメラは、機械的な必然性でこういう格好になるのだ、そんなスタイル。買ってもらわんがために気を惹くような事をする、そういったところが少しもないのである。
 
 マスク:2003年3月6日
 花粉症の時期になった。
 今年はひょっとして、何かの具合で花粉症も治っていたりするんじゃないかと、始まる前は淡い期待を抱いたりするのだが、そういったお目こぼしもないようで、やはりこの時期になるときっちり始まるのである。
 もう毎年のことだから、このふた月ほどのあいだ、どこか外国にでも行っていられないものかと思う。
 スペインあたりいいかもしれない。そう、サッカーとワイン漬けの日々。
 とは思うだけで、もちろん行けるはずもない。災禍だとあきらめ、時期が過ぎるのをじっと待つしかない。

 昼間、お客さんと電話で打ち合わせをしていたら、それまで何ともなかったのに、突然くしゃみが始った。10連発ぐらい、止まらなくて困った。
 「すみません、花粉症なもので」と詫びると、先方もお仲間のようで、
 「てん茶が効くわよ」とのこと。
 「てん茶なら飲んでます」「それと天然ニガリがいいというのをこないだテレビで見たんで、飲んでるんですよ」
 「それってどう?効きますか」
 「ええ、少し楽なような気がします」
 とまあ、ささやかに盛り上ったのである。
 
 外出時にマスクは手放せないので、使い捨ての紙マスクが何種類か、買いこんである。
 毎朝出がけに紙マスクをするが、私の場合仕事場でも一年中たいていマスクをしていて、特に機械を使う時は木の粉塵が舞うからで、こちらも同じような使い捨ての紙マスクである。
 それならこの時期、朝から一日ずっと同じマスクをしていればいいことになるが、工房に着くと一応マスクを着け替える。両方使い捨ての紙マスクでも、仕事用と外出用と。
 紙マスクから紙マスクへ。何だかおかしいと思いつつ、そんなことをやってる自分が、ちょっと愛おしい気もするのである。

 田舎:2003年2月10日
 毎週日曜日の昼過ぎの、ちょうど昼ご飯を食べ終ってぼぉーとしているころになると、どこからともなく一機のセスナが飛来して、上空でアナウンスを始める。
 「車を買うなら○○、車を売るのも○○、車のことなら○○自動車・・・」中古車屋さんの宣伝をしばらくやって、またどこかへ飛び去っていく。
 考えてみれば厚かましい話だが、いちいち目くじら立てる人もいないのか、そのあたり田舎は大らかである。

 田舎といってもここは、そうやって宣伝に来るぐらいだから、実はそれほどでもない。案外「まち」なのだ。
 例えば、役場や子供の学校や、スーパーやホームセンターや銀行も、みんな車で5分以内にある。10分あれば高速のインターまで行けるし、30分ちょっとで高崎の駅。そこから新幹線にのれば小1時間で東京だ。
 これだけなら、以前住んでた川崎市郊外の住宅地よりずっと便利なところなのである。
 私は都会育ちでもなんでもないので、田舎への憬れも、思い入れも、また妙な思い込みもない。こうやって便利な所のほうが都合がいい。

 田舎に行けば美しい自然、澄んだ空気、素朴な人間、それらがセットで待っていると思っている人がいる。マスコミやなんかでそういって取り上げるし、また田舎も長い間、それを「売り」にしてきた。でも、それももう過去のことになりつつある。
 日本では、標高が千メートル以下の所に、見るべき自然は残ってない、というのは私の持論だが、あながち間違いとも言えまい。
 今は何処へ行っても似たようなもので、もし、絵に描いたような田舎に出合いたいのなら、それはもう外国にでも行くしかない。

 そうは判っていても、懲りずに出かけた山間の観光地のことである。
 細い一本の道路沿いに、土産物屋が軒を並べていた。
 どの店の駐車場にも、「駐車料金・無料」の大きな看板書きがある。
 何軒かやり過ごしてから、ちょっと寄ってみるかと思い、道っ端でオバさんが手招きする一軒に車を入れた。
 すると、そのオバさんがすかさずやって来て、何やら紙切れを差し出すのだ。
 「ハイ、買い物券、千円デス。」
 そこの店で使えと言う事らしい。
 看板に偽りあり。これじゃまるで盛り場の客引きじゃないの。何だか釈然としないものがあったが、ここは日本人の弱いところ。文句のひとつも言えず、財布に手が掛ってしまうのである。
 考えてみれば、世の中そんなに甘くはない。
 いま田舎の「売り」は、美しい自然でも素朴な人間でもない。土産物なのである。

 銀杏:2003年1月21日
 台所で銀杏を見つけたので、レンジでチンして食べた。暮れにもらったものである。粒が不揃いなのが、買ったものではなく庭木のイチョウらしい。
 銀杏は採ったらしばらくは土に埋め、頃を見計らって掘り出して、それから外皮を剥くと楽に剥ける。誰かに聞いたことがあるが、もらったのはもうそういう下処理を済ませたものだから、面倒がない。
 
 銀杏を見ると、いつも決まって子供のころのある事件を思い出す。必ずと言っていい。
 それを書く前に「イチョウ」の語源を本で調べてみると、鴨脚を意味する中国宋代の音、「ヤーチャオ」から転じたものだとあった。ヤーチャオが「イーチャウ」になって、それからイチョウ。
 そのイーチャウを日本に持ち込んだのは仏僧で、全国各地に伝えたとある。言われてみれば、イチョウの木は寺社に多い気もする。広まったのはイチョウの薬効のせいもあったろう。それにしても、なるほど鴨の脚である。

 小学生の頃、格好の遊び場だった神社にも、大きなイチョウの木があった。狭い境内に三本、境内を出たところにも二、三本あった。どれも巨木で、一番太いものは直径が二メートル近いだろうか。樹齢は600年と聞いたことがあるが、もし本当なら相当に古い。
 秋には落ち葉が境内いっぱい厚く降り積り、上を歩くとふかふかだった。
 境内にある三本のうち、一番古そうなのが雌株で、実をつける。大風の吹いた後など、境内には随分実が落ちていて、早朝から近所の人が拾いに来ていた。

 子供達は、落ちている実には余り関心がなかったのだが、ある時誰が言い出したのか、銀杏採りをすることになった。
 遥かな高みで、たわわな房になってぶら下がっている銀杏。それを目がけて石を投げる。子供でも思いっきり投げれば、どうにか届く高さだった。見事命中すれば、バラバラッと落ちてくる。それを我れ先に駆けて行って拾うのである。
 木から少し離れた位置から皆んなで一斉に石を投げて、当って実が落ちてくれば投げるのをやめ、皆で木の下に行って拾う。
 最初のうちはこのルールが守られていたのだが、熱中してくるとだんだん投げる拾うが一緒くたになってくる。盛んに投げてる奴もいれば、拾うのに一所懸命なのもいる。
 一応は、命中させた者が真っ先に拾う権利を持つという、そんな了解があったかもしれない。
 自分の投げた石がうまく命中して、実がバラバラッと地面に転がった。木の下に駆け寄って、拾おうとしゃがみ込んだ瞬間、頭のてっぺんがジーンとしびれた。
 最初は何が起きたかよく解らなかった。頭に手をやると、やや間があって生暖かいものが流れ始めた。石が当ったらしい。

 それから出るわ出るわ、血が頭から首すじを伝って背中に流れ落ちた。
 誰かがハンカチを貸してくれた。傷口をそれで押さえて、片手で自転車にまたがると、家に飛んで帰った。
 気が張ってるうちは子供でも泣かないもので、泣いたのはウチに着いてからである。
 思ったほどひどくなかったのか、医者には行かなかった。

 そうやって痛い目までした割に、子供じぶん銀杏を食べた覚えがない。石を投げての銀杏採りも、いっときの遊びだったのだが、その事件以来誰もやらなくなったように思う。
 
 カレンダー:2002年12月10日
 12月に入ると、とたんに気ぜわしく感じる。
 急ぎの仕事が出来たりするとなおのことで、実際いまそんなことになっている。
 12月の一日も、例えば8月の一日も、同じ一日なのだが重みがまるで違う。
 
 そろそろ年賀状の準備をしなくてはと思う。子供のクリスマスプレゼントも買わないと、お歳暮はどうしようか、あれやこれや、気だけは回すが実行が伴わないものだから、余計に気ぜわしい。つくづく損な性分だと思う。

 カレンダーも買っておかないと。
 そう思ったのは、ぐずぐずして買わずにいるうち年が明けてしまい、1月も半ば頃になってから店を回ってカレンダーを捜したことが、一度ならずあったからだ。
 ふつうカレンダーの三つ四つ、どこからか貰うものだろうが、ウチの場合そんな取り引き先はないし、たいした買い物もしていないので、年末になってもやって来ない。
 ただ毎年ひとつだけ、ある商店からいただく。いつも決まって、お庭の写真のやつ。月ごとに料亭のようなところのお庭を楽しめるという、けっこうなものだが、残念ながら私の趣味ではないのだ。

 最近は見かけなくなったが、昔はどの家にも、日めくり(カレンダー)が下がっていた。暮れの大掃除が終わると、新しい日めくりを所定の場所に掛けて、正月を待った。
 年が明けて、分厚く盛り上った表紙の一枚目を破ると、大きく胸を張ったような「1」の字が、日の丸の旗を背に現れた。その晴々とした「1」が、いかにも一年の始まりらしかった。
 日めくりも年の初めのころは、家の者の誰かが毎日律義に破っていても、そのうち三日四日忘れるようになり、そのぶんまとめて破ったりした。カレンダーとしての役目は、あんまり果たしていなかったわけだ。

 歳の離れた従姉(いとこ)がいて、私がまだ二十代のはじめのころ、向こうは四十代で、私に言ったのものだ。「四十過ぎると、一年一年がほんと、あっという間よ」。
 迂闊にも、それをぽかんと聞いていたそのころの私の一年は、持て余すほど長かったに違いない。ちょうど正月の日めくりのように分厚かったのが、いまは12ヶ月を一枚に刷ったカレンダーみたいに、一年がほんと、あっという間なのだ。

 場違い:2002年11月26日
 本人にその自覚がないだけで、歳からすればもう立派な中年と言える。誰って、他でもない私のこと。
 青年の場合と違って、中年には成人式のようなセレモニーがないので、それと気づくのが遅れたりする。もっとも、成人式ならぬ「中年式」があったとしても、まず出る人はいない。できれば気がつかないでいたいものだ。

 二年近く前の話。
 その冬も、毎年恒例の木工仲間のグループ展があった。私は、家具のほかに一枚板を刳りぬいた額を幾つか、壁に掛けておいた。中に葉書が入る大きさの定番の額である。
 一週間あった会期の初めに、そのうちのひとつが売れた。中年の女の人に買ってもらったのだが、「いろいろ他でも買って、持ち合わせがなくなったの。あとでまた来るから、取っといて」と言うことだった。確かに、たくさん買い込んだらしい紙袋を両手に下げていた。
 とりあえず、住所と名前だけ書いてもらって、壁のその額の下には売約済を示す赤丸のシールを貼っておいた。
 聞いた住所は会場の近くらしいので、その日のうちに取りに来られるかと思ったが、そうでもなく、翌日も、その翌日もお見えにならなかった。
 家に帰ってひと息ついたら、気が変ったのかもしれない。何となくそんな気がしてきた。

 会期のお終い近くになって、いよいよこれは来ないなと思っていると、その額が欲しいという別の人が現れた。他のを一つ買って、さらに赤丸のも欲しいとおっしゃる。
 二十歳(ハタチ)をちょっと過ぎたぐらいの、線の細い色白の、物静かな女性である。作った本人が言うのも何だが、小さい額にしてはそれほど安くないので、そんな若い娘(こ)が二つも買ってくれるのが、有難くも少し不思議な気がした。
 「これはちょっと、一応売約済みなんですが、取りに来るといって何日も経つので、ひょっとしたらもう来られないかもしれません」。「もしそのときは、後でまた連絡しましょうか」と聞くと、「ええ」とうなずいて携帯電話の番号を教えてくれた。

 案の定、最初の「取っといて」の人は現れなかった。それで会の後片付けが終わった翌日だったか、その若い女性に連絡をしてみた。
 「どうしましょう、ついでの時にでも、何処かで待ち合わせをして、お渡ししましょうか」。「どこか(適当なところが)ありますか」と聞いて、二、三日後の夕方、国道沿いの喫茶店で会うことになった。その辺りは車でよく通るので、店に入ったことはないが喫茶店のチェーン店があるのは知っている。女性の勤め先の近くらしかった。

 その日は夕方のことが気になってか、一日が速かったような気がする。
 約束の6時、店に着いたら彼女のほうが先に来ていた。
 案内された席は、店の奥まったところの、小さなテーブルを挟んだ差し向かいの二人席。それとなく見回すと、周りの客はみな恋人同士といった感じで、静かにお喋りをしている。そこは店の他の場所より心なしか照明も落してある様子。
 ちょっと場違いな気もしたが、まあそんなこといってもしょうがないので席に着くと、お絞りと水がきた。
 「先日はどうも」と挨拶をして、それからあとが続かない。
 例の額を取り出して「これなんです」と渡した。
 「ありがとうございます」、彼女は礼を言いつつ財布を取り出して、額のお代を私の前に差し出すと、「わたし、これからちょっと用事があるので」。そう言って、さっと立ち上がった。
 まったくの不意打ちだった。
 「あっ、そうですか」。平静を装ったが、顔はこわばってたに違いない。
 彼女は(私の)コーヒー代を置いていくと言ったが、もちろん辞退した。

 ひとり残された私は、コーヒーを頼んだ。このまま何も注文せずに帰るのも店の人に悪いと思ったのだ。
 コーヒーはおいしかったが、居心地の悪さといったらなかった。

 店を出ると、冬の短い日ははとっくに暮れて、木枯らしが吹き荒れていた。ふられた男が家路に着くシーンには、おあつらえ向きである。
 勤め帰りの時間帯で、道が混んでいた。思うように進まない車の中で、ひとり笑った。可笑しくもなかったが、ここは笑うより他なかった。

 
 関西弁:2002年11月5日
 「敷居の上に乗ったらあかん、敷居は親の頭や思えて言うんや」。
 兄嫁が、中学生の娘に言うのを聞いていて、そういえばよく親にそんな小言を言われたものだと、ちょっと懐かしかった。
 それでも、敷居を親の頭と思えとは初耳。
 近頃どこへ行っても、そんな古風な物言いは聞かなくなったので、もうとっくに滅びたのかと思っていたが、物持ちのいい関西ではまだ健在なのだろうか、聞きそびれた。
 
 私も十八の年まで関西で育ったので、当然それまでは関西弁だった。そのあと東京、神奈川、群馬とずっと関東なので、いわゆる標準語か、それに近いところで喋ることにしている。
 何処で暮らそうがおかまいなしに関西弁で通してる人もいるが、そういう頑なな気持ちが私にはないし、関西もはずれの方で育ったせいか、それほど関西弁に執着がない。できることなら、行く土地土地の言葉で喋ればいいと思っている。
 出身(滋賀県)を聞かれて、関西なまりがぜんぜんないですねと、人に言われることがある。たまには関西弁で喋ってよとリクエストする人もいるが、もうこっちの方が長くなって、関西弁と言われてもにわかには出てこない。
 順応性があるのか、言葉に器用なのか、覚えが速いと自分では思っている。名古屋で暮らせば名古屋弁で、広島だったら広島弁でやれそうな気がするのである。こだわりも何もない。
 
 この前、高崎から東京へ向かう電車で、発車間際になって駈け込んできた初老の女性が二人、私の向かいの席に座った。お二人は、息が上がってハアハア言いながらも席に着くなり、お互い関西弁で喋り始めた。
 同窓会だか何かの用事で高崎まで来て、これから一旦東京へ出て関西に帰るらしい。
 関東平野もはずれの群馬まで来ると、ナマの関西弁のお喋りは珍しい。「そやけど、よお間におうたなぁ」とかなんとか聞こえてくるのが、それでも少しは嬉しかったのである。

 先日、久し振りに里帰りをした。実家は、琵琶湖までほんの直ぐの所にある。
 墓参りをしたついでに、昔よく遊んだ浜辺に出てみた。
 かつて地元の子供か漁師しか行かなかったような鄙びた砂浜にも、新しい道路ができて、行楽客が押し寄せるようになっていた。
 遠く離れていると勝手なもので、「ウサギ追いし、かの山」の唄ではないが、古里はずっと変らないものだと、思いこんでいるフシがある。
 静かだった湖畔が騒々しくなって、何だか落ち着かない。
 「琵琶湖も変ったなぁ」と、ひとりため息をついたのだが、変ったのはお互い様、かもしれない。

 縦書き:2002年10月12日
 もう5年になるらしい。
 Kさんからの手紙に、「5年前今の家に越して、(そのとき)作っていただいた我が家の座卓も・・・」とあったからである。
 手紙は、二階の居間に収納がないので、家の中が片付かなくなってきた。こんどはサイドボードのような収納が欲しいのだが、どうせなら座卓と同じ木でまたお願いしたいといった内容だった。そしてサイドボードのスケッチと、簡単な仕様が一緒に書き添えられていた。夫婦の名前で出されているが、字からして奥様の書いた手紙である。
 家具を納めたあと何年も経って、もうそんなことも忘れかけてたころ、また何かを作って欲しいと相談を受ける。何とか冥利に尽きるという言い方があるが、こういう時の嬉しさがそれである。

 それにしても今どき手紙とはまたご丁寧な。
 薄い和紙の便箋に、もちろん文章は縦書きで、なかなかの達筆。ご年配だからというのではない。聞いたわけではないが、見た感じ歳は私と同じぐらいではないか。
 こういう封書をもらうのも随分久しぶりな気がする。
 文中には、こちらの電話番号がわからなくて手紙で、と書かれていたが、それよりもたぶん、いきなり電話というのもご本人にすれば何か騒ぎ立てるような気がして嫌で、それでペンを執ったのではないか。そう思ったが、深読みだろうか。ともかくどこか奥ゆかしいのである。

 確認したいこともあったので、さっそくKさんに電話をしてみたが、留守の様子。そういえば共働きだったのを思い出し、夜してみたが、やっぱり誰も出ない。土曜日も留守で、しかも電話は留守電にもFAXにも切り替わらず、ただ呼び出し音が鳴り続けるばかり。
 こうなると手紙である。
 ずぼらなことに手元に便箋がないので、レポート用紙に書き始めた。私の場合は、横書きの乱筆である。

 最近読んだある人の本に、「このごろの若い人は文章を横書きするが、私は縦書きじゃないと書けない」とあった。漢字や仮名は縦書きが本流に違いない。
 想い返してみると、中学の頃にはもう横書きに書いていたはずである。横に罫線の入ったキャンパスノートに、先生の黒板書きを律義に写していた。でも当時、ひと回りもふた回りも年上だった先生の板書は縦書きだったろうから、縦書きを横に写し替えていたことになる。だとすれば、ずいぶん不便を感じたはずだが、そんな覚えもない。どうだったんだろう。
 
 私の手紙は、朝書いて午前中に出したら、翌日には着いたと奥さんから電話があった。平日だったが、その日がちょうどお休みだったらしい。
 「何度か電話をしたのですが留守だったもので、」と言ったら、恐縮されて、「毎晩遅いもので・・・。ファックスもないしパソコンも仕事以外では使わないし、携帯電話だって持ってないんですよ」とおっしゃる。
 私も似たようなもので、家に帰れば何の機能もないタダの電話があるっきり、携帯なんか持ってないのである。
 似たもの同士というわけでもないが、それから、すこし長い電話になった。

 栗の盆:2002年10月3日
 夕方家に帰ったら、いただきものの栗がテーブルの上にあった。腹が空いていたので、湯がき立てだった栗を爪で割って食べた。ポロポロとこぼれ落ちる実を拾いつつ食べながら、栗の木について考えた。

 栗はこのあたりでは最もポピュラーな木かもしれない。古い民家の柱や梁に、栗が当たり前のように使われているのを見かける。工房にしている建物にも一部使われている。
 今でも広葉樹にしてはめずらしく建築材としての需要があって、先日も通し柱に使えそうな長い栗の丸太はないかと建築家から相談を受けた。そういえば三内丸山の縄文遺跡で見つかった巨大な柱も栗の木だった。わりと真っ直ぐに育つのである。
 栗は楢のように高い山に生えている木ではなく、里の低い山に多い。二、三年前から原木市場に出てくる木が少なくなったことは以前書いたが、栗はまだ比較的数があるのは、そのためである。
 市の立つ日に、杉や檜の針葉樹以外では栗と欅がちらほら、そんな寂しいこともたまにある。

 工房にも栗はいくらかストックしている。作る側からすれば、いろんな意味で扱いやすい木だ。乾燥段階で大きく狂ったり、割れが入ったりということが余りない。
 製材して、いい板が取れたと喜んでも、乾燥が上がった時あらためて見てみると、板がスルメの様に反ってたり、ヒビだらけだったりして泣くことがたまにある。栗はそうやって期待を裏切ることが少ないので助かる。木の堅さも重さも程よく、加工性はすこぶるいい。木目は明瞭、色は明るくて少し黄色味を帯び、チーズのような色とでも言おうか。

 そんな栗で、このところテーブルを作ったりワゴンを作ったりした。この先の仕事にも、栗の丸い座卓、栗のベンチと出番が多い。
 それと何日か前に、工房で使うお盆を栗で作った。お客さんが来たときに、お茶も出せないのはまずいんじゃないのとカミさんに言われて、反省してお盆を作ったのである。最近ちょっと凝っている木工ロクロで作るべく、適当な板を探したら栗の切り落としがあったので、それでやってみた。同じ木工とはいえ、畑違いの仕事なので時間はかかったが、我ながらまあまあの出来栄え。素木にオイルをさっと吸わせて仕上げた。

 家の台所で、栗を今度はスプーンでほじって食べながら(そう言われてやってみたら、こっちの方がずっと具合がいい)、あの作ったばかりのお盆に、この栗の実を幾つか載せたら、チーズのようなお盆の色と、赤茶の栗の実のコントラストが綺麗だろうなと、他愛のない想像をしたのである。
 
 印刷:2002年9月13日
 昼はパンで済ますことが多いので、近所のパン屋さんにはよく行く。できて二年ばかりの店に、もう何十回と買いに行っているが、先日はじめて店の床(ゆか)に目がいった。
 木目調である。塩ビか何かのシートに木目を印刷したもの。木目に合わせて凹凸までついていて、実に精巧にできている。あまりキレイ過ぎるのも嘘臭いのか、印刷の元ネタにあえて節やヒビ割れのある板を使っているところが心憎い。
 職業柄、木のフローリングならまず間違いなく目がいくし、あそこは何を使ってたと覚えてるものだが、この店の床、今まで気にも留めなかったのは、たぶん見た目よりも踏んだ感触が木とは全然違ってたからだろう。その店の床はカラマツの木目調、だった。

 建築家の隈研吾さんが以前、建築材は素材として嘘のないものを使いたい、というようなことを書いていた。トタン板は安っぽい素材だけども、見たとおり鋼板にペンキを塗ったものでこれなら使えるが、たとえば木やレンガに見せかけたような鋼鈑は使いたくない、そんなことだったと思う。そのとおりである。木は木らしく、プラスチックはプラスチックとして使う、そのほうが正直で見た目も美しい。これは建築家だけでなく一般的な考え方だと思うのだが。
 パン屋さんにしてみれば、掃除がし易いとか、コストの面で安く上がるとか事情はあったのだろう。でも、どうせならベージュか何かの単色の塩ビシートだったほうが。と、まあ大きなお世話ではあるが。

 事情があって、実家(女房の)によく泊まる。実家は四、五年前に建てた、あるハウスメーカー製。寝るのは二階の、普段あまり使っていない和室である。やはりずいぶん何度も泊まっていて、あるとき気付いたことがあった。
 いま、和室の天井などは印刷の貼り物が多い。たいていは、杉の中杢板なんかを印刷した45cm幅の合板である。その合板を、間に1cmほどの目地を透かせて(空けて)張っている。もともとはムクの一枚板を並べていたものが、そんな幅広の板は高価になったので、突き板合板で作るようになり、やがて突き板をとれるような木も少なくなったために、印刷に落ちたのである。もちろんその二階の和室の天井も印刷である。

 あるとき、その和室に寝ころがってぼんやり天井をみていたのだが、なんかどうも違うような気がする。で、ムックと起きあがって天井をまじまじと見た。そしたらなんと、板の木目はもちろんの事、「目地」まで印刷だったのだ。8畳間の天井そっくりまるごと、印刷した紙が貼られていたのである。
 これにはびっくり。これじゃまるで芝居の「書き割り」じゃないの。だとすれば普請したあの大工、じつは大道具さんだったのか。

 吉兆:2002年9月1日
 朝、工房の前で玉虫を拾った。雨上がりで黒く濡れたアスファルトの上に、どういうわけだか一匹、死んでいたのである。
 大抵の人は玉虫を見たことがないに違いない。いつも下ばっかり見て歩いているような私でもこれが確か二回目のことで、この前はいつ何処で見たんだか、思い出せないぐらい昔のことなのだ。
 それでもその虫が本当に緑色に光り輝いていたから、玉虫だと直ぐに判った。コガネ虫やカミキリ虫も光ってるのがいるけど、そんなんじゃぜんぜんなくて、頭のてっぺんからつま先まで、金のリボンみたいに輝いていた。そして背中には、紫色に輝くストライプが二本。
 手に取って見ると、これは蝉やトンボも同じなのだが、6本の脚を胸の前で綺麗に折りたたんで死んでいる。昆虫は死ぬにしてもこうやってちゃんと型があるようで、小さくてもなかなか洗練された生き物なのである。

 インターネットで玉虫について見ていたら、古くは玉虫のことを吉兆虫(吉丁虫)と呼んで、いいことのある知らせだという。昔の女の人は着物が増えるようにと、玉虫を入れた小さな桐箱を箪笥の中に忍ばせておいたとか。
 ありがたいお話だが、私の場合着物は要らない。それじゃ「吉」ってなんだろう、想い描いてみる。
 お金、例えば宝くじにあたるとか。しかし生まれてこのかた、宝くじを買ったことがない。買わないモノは、当り様がない。ギャンブルもしないし。例えば仕事がどしどし舞い込んでくる。しかしそうはいっても、そんなにこなせるものでもない。しばらく考えた。
 欲しくて探しているような物も、とりあえずない。強いてあげれば、家族みんなが無事健康で、というようなことになった。
 でも、それはそれでとても大切なことなのだが、どちらかというと神社にお詣りに行った時にお願いするようなことであって、玉虫に願かけるようなことではないような気もする。
 結局のところ何んにも思い浮かばないのだ。これには我ながら失望した。
 「ちょっとは見どころのある男だと思ってたのに、案外平凡なんだ」、そんな感じである。

 あれから二週間ばかり経ったが、特にこれと言っていいこともない。玉虫はいま、ガラスの小さな入れ物の中で標本みたいに静まりかえっている。
 どうも私には無用のモノらしいので、それなら今度箪笥を作ることになっているUさんに、桐箱に入れて差し上げようか、などと考えている。もちろんご本人が望めばの話ではあるが。
 
 2001年9月〜2002年8月の工房日誌はこちら