椅子好き:2006年8月23日
 先日、椅子を買った。
 仕事で椅子を作ってるんだから、買わなくてもいいだろう。自分で作ればいいじゃないか、と言われそうである。

 建築家と言われる人たちに椅子好きが多いのは、よく知られている。実際私がお付き合いしている何人かの建築家も、自宅や事務所におじゃますると、使いこんだ名作椅子があったり、美しい椅子がさりげなく置かれていて目を引くのである。ウェグナー、イームズ、ヤコブセン、コルビジェ、アアルトなどなど。インテリア雑誌ではお馴染みの彼らの作品を「いいですねぇ」などと言いつつ眺めていたのだが、わたしには高嶺の花で、正直うらやましかった訳である。
 もちろん家具屋としては、自分の椅子で勝負しなくてはならないという立場であり、歴史に名をとどめる椅子相手とはいえ、ただ「いいですねぇ」と見惚れて「僕も欲しい」では情けない。よそ様に椅子を売っておいて、じぶんの家では北欧のを使ってます、では申し訳がない。作り手としてのプライドがある。しかしウェグナーもいい、イームズもひとつでいいから欲しい、心中複雑なのである。

 中古のオンボロでもいいから何かひとつ買ってみるか。
 いや、むしろオンボロのほうが値段は安いに決まっているし、ばらしたり塗装し直したり、張り替えをしたりすればいい。細かいところの処理の仕方など、雑誌やカタログでは判らないことも出てきて勉強になるはずである。幸いアシスタントのT君は、うちに来る前椅子張り屋さんにいたので、簡単な張り替えなら自前でできるのだ。

 椅子作りは椅子を研究する所から始まる。何かで読んだのだが、家具産業が盛んな北欧の、家具作りを教える学校のはなしである。
 まずはじめのカリキュラムは、生徒が各一脚づつ過去に生産された椅子を教材として選び、現物から寸法を実測して図面にしてみる。そして次に描いた図面を基にその椅子の忠実なコピーを作るのだそうで、こういったプロセスを通して、椅子の構造やデザイン、製作のノウハウを学ぶというのである。
 絵の勉強でいえば美術館で名画の模写から始めるようなものかもしれない。職人の徒弟制度的な教育の時代が長かったわが国では、こういうことがやれる学校はまだないだろう。
 うらやましい環境だなと思うのは私ひとりではないはずである。遅まきながら、そんな真似事をしてみようかと。

 さて、届いた椅子は30年前のものにしては、思ったより状態は良かった。目立った傷、組み手の緩みはなく、分解する必要はなさそうである。布張りの座と背もたれは、さすがに中のクッションがグズグズで、張り替えが必要だった。布も取り替えた方がよいとT君。ウレタン塗装もピカピカしてしっくりこないので、落してオイル仕上げにしよう。
 やってみると結構楽しい。なんだかハマリそうである。

 怖い夢:2006年2月11日
 怖い夢を見るのは、たいてい仕事に追われて忙しくしているときである。私の場合、怖い夢には二通りのパターンがあって、2、3日前に見たのはその内のひとつ、誰かに追っかけられる夢だった。
 逃げても逃げても追って来て、ああだめだ、とうとう追いつかれてしまう、もう観念というときに目が醒めるのである。
 ちなみに、追ってくるのは知った人の場合もあるが、たいていは見ず知らずの人物で、先日の夢の追っ手は一面識もない若い女性だった。
 若い娘ならそんなに慌てて逃げなくてもいいようなものだが、そこが気の利かないというか、出来の悪い夢で、藪を駈け川を跳び、大慌てで逃げたのだった。そして例によって、もうこれで捕まるという時、目が醒めた。

 もうひとつの夢は、高所恐怖なパターン。
 ヨットの帆柱のてっぺんみたいなところに独りつかまって、ユラユラ揺られている夢で、怖さではこっちの方が上である。下を見れば目がくらみ、足がすくんでしまって動くに動けず、降りるに降りれずで、もうこれで人生もお終いかというとき、決まって目が醒めるのである。このときはさすがに、ああ助かった、夢でよかったと心底思う。

 もともと高い所が苦手なわけではなかった。20代のころ看板屋さんでアルバイトをしていたぐらいで、ビル看板の取り付けなどけっこうこなしていた。
 看板の仕事も高いビルになると、屋上から吊り下げた縄ばしごでの作業になる。
 縄ばしごを地上から上に登って行くのは、下を見なくていいぶん怖さはないが、ビルの屋上から降りていくのはさすがに怖い。ビルの縁というか突端から、するすると縄ばしごを下りることができるのは、そこの社長さんだけで、アルバイトにはとても真似できなかった。
 ある時社長さんに「縄ばしご、危なくないですか」と聞いたら、「大丈夫、あんなとこで手ぇ離すヤツはいないから。」社長さんはさらりと言ってのけたのだった。
 いまの私に、あの社長さんの度胸があれば、夢の中で帆柱のてっぺんにつかまって、ああいい眺めだと言っていられるのだが。
 鉛筆削り:2005年12月4日
 うちの子のスチール製の筆箱には、ものすごくちびた鉛筆が10本ばかり入っている。どれも2、3センチしかなく、よくまあこれでと思うようなものに延長キャップをかぶせて使っている。たくさんあるなかで長いのは気に入らないみたいだから、始末屋さんというのではなくて、どうも短い方が「カワイイ」ということらしい。
 こんなに短いと、ハンドルの付いた鉛筆削り機で削るのはさすがに無理で、何かのオマケのような、手でぐりぐり回す小さな鉛筆削りで芯先を尖らせている。毎晩寝る前に、居間の机の上でティッシュを一枚敷き、カリカリと音をたてながら削り屑を落している。
 普通に長い鉛筆を使っていた時期もある。そのころは、うちに鉛筆削り機があったのだが、壊れて削れなくなった。新しいのをせがまれて、すぐ買えばよかったのに、そのうちにと言ってるに間に時間が過ぎてしまったのだ。
 最近、この短い鉛筆にキャップが気に入ってからは、もう削り機のことを言わない。
 
 去年の夏、高崎のギャラリーでグループ展をやったとき、お客さんにアンケートをとることになり、プリントした用紙と新しい鉛筆を何本か机に並べた。
 近くにいた若い女性スタッフの手が空いてそうだったので、鉛筆削りを頼もうとカッターナイフを渡したら、「えーやったことなぁい」との返答。ナイフで鉛筆を削った経験がないのだ。
 知らなかった。世の中、いつからそんなことになっていたのか。
「そうか、ないのか」と、浦島太郎のようなため息をひとつ。
 それでも「できるから、やってみなよ」と押しつけたら、あとで「削れたよ」と知らせにきた。

 まだカッターナイフという言葉もなかった小学生の頃である。四年生か五年生だったか、少し大人の真似をしたくなる年になって、小刀を買ってもらった。その時分の流行りだったのか、近所の子はみんな持っていたようである。
 刃が柄に収まるタイプの携行式で、柄と刃の結合点が回転軸になっている。たたむときは、鉄の板を二つ折りにプレスした柄の隙間に刃が滑り込むという簡素な作りである。
 小さな子供の手には充分すぎる重さ、切れ刃の光り方も本物であった。
 鉄製の柄に「肥後守」と打刻されている。当時は読み方も知らず眺めていたが、長じて、というより随分いい年になってから、ヒゴノカミと読むのだと知った。越前の守とか摂津の守のとかの類である。ただしどうして小刀が「肥後の守」なのかは今もって知らない。
 さてその肥後守で何をしたのか。憶えがあるのは木の枝を一本、木刀に削ったことぐらいで、あまり使ったという印象がない。割りと早くに無くしてしまったのだろうか。
 
 このあいだ職人向けの、それこそ地下足袋から脚立、鋸、鉋まで、道具ならなんでもありの通販カタログをぱらぱらとめくっていたら、昔なつかしい肥後守が載っていた。今も売っているということは、作っている処があって、使う人もいるのだと、他人事とは思えずうれしかった。
 ただし木工屋さんは、小刀といっても携行性より切れ味重視の「切出し」を使うので、肥後守はまわりでも見た事がない。ひょっとしたら、水道屋さんとか電気屋さんの道具箱には、一丁入っているのかもしれない、などと勝手な想像をしている。

 自転車:2005年11月1日
 気が付けば、私もいい歳である。甘く見積もっても、人生の半分はとうに過ぎた計算になる。
 もうすでに、というよりかなり前から中年に属するのだから、体力は低下し、体型も変化してくるのは道理である。40過ぎて運動らしきことを何もしないでいると、ご承知のように腹のまわりに脂がのってきたりする。
 子供時分見ていた風呂上りの父親の、あの中年特有のぽってりとしたおなかに似てきたと、最近鏡を見て思ったことがあった。

 田舎暮らしをすれば、移動はもっぱら車である。運動はおろか、歩くことも少なくなった。家の前で車を停め、10歩あるけば玄関がある暮し。通勤も買い物も何も、日常出かける時は車以外考えにない。
 都会で暮す人のように、ビルの階段の上り下りや、駅から目的地に向かって街中をひたすら歩く、なんてことはやらなくなって久しい。
 たまに用事があって電車に乗って東京に行くと、翌日フクラハギのあたりが張っていたりするありさまである。

 何か運動をしなければ、というのは以前からぼんやりと頭の中にあった。
 実はだいぶ前のことになるが、水泳をはじめようとしたことがあった。
 近場のスイミングスクールに入会をし、何回か泳げるチケットを買ったものの、もったいないことに一度行ったきりで行かなくなってしまった。何だか合わないのである。
 たぶん私の場合、好きな時間に、自分独りで、好きなペースでやれないと嫌なのかもしれない。
 それでかどうか、やるなら自転車がいい、というのも1年ぐらい前から何となく考えていた。ところがなかなかこれが、ものぐさと愚図が同居したような性格だから、思い立ったらすぐ実行、みたいな訳にはいかないのである。仕事が忙しいとか、この時期花粉症だからアウトドアは無理、などと自分に言い訳をして、先延ばしになっていた。

 しかし、放っておいても事態はよくならない。ときどき脱衣場の鏡で見るおなかの贅肉は少しづつ成長する気配。
 そしてこの夏海水浴に行ったのだが、久しぶりに海パン姿になったら、家人に笑われてしまった。何とかした方がいいんじゃないか、とのたまうのだ。
 確かに海パンからはみ出した脂肪は相当なもの。これはそろそろ限界かと、一念発起して自転車購入を決心したのである。

 それからはわりと早く、ネットで選んだ自転車が届いたのが8月のお盆前だったか暑い時期で、夕方の少し涼しくなるのを待って、工房のまわりを乗ってみた。
 これが思ったよりスイスイ軽快に走る。
 夏の夕暮れどき、茜色に染まった空の下、風を切って走ると気持ちがよかった。
 
 あれから2ヵ月半、雨さえ降ってなければ、ほとんど毎日乗っている。朝早くに3、40分ぐらい走ることが多い。三つぐらいコースがあって、その時の気分で、街中だったり田んぼの中の直線道路だったり。また仕事に退屈すると、工房のまわりをぐるっとまわって気晴らしをしたりしている。

 肝心のおなかの贅肉は、それほど目に見えては変わらないようだが、まだ始めたばかりである。このさき1年も続ければ、少しは違ってくるのかもしれない。
 ただそれよりも何よりも、ペダルをこいでいる間は、少年のころみたいに身軽な気分でいられるのがうれしい。

 カエデ:2005年8月27日
 木は成長とともに年輪を重ねて太くなるわけだが、成長過程で被ったダメージは内側に包み込むようにして大きくなるので、やがてそれは外側からは見えなくなってしまう。
 例えば、枝折れや部分的な腐れ、虫食いの痕なども何もなかったように覆い隠してしまう。そういった過去の傷は、実際に製材をして中を割って見て初めて表に出て来ることになる。
 原木買いのトラブルは大抵こういったことによるもので、それが製材するまで心配の種だったり、製材した後の失望の元になったりする。

 以前、桂の板を削っていたら散弾銃の鉛の玉が出てきたことがあったが、こんなのまだいいほうである。お客さんが持ってきたケヤキの厚盤を工房の機械で挽いていたら、突然前に進まなくなったので見てみたら、コンクリートの塊にぶつかったのだった。枝が折れた後の穴を埋めたものらしいのだが、帯鋸の刃をダメにしてそのあと何日間か落ち込んだものである。

 先日買ったカエデの丸太は、自分としてはけっこう高い買い物だった。材木屋の口車にうまく乗せられた面もあるが、見たところいい板が取れると踏んでのことである。
 ダメ元で買った安い木とは違い、そう変なことも起こらないだろう。製材屋さんに持ちこんで製材機が動き始めてからも、どこか安心して眺めているところがあった。
 ところが最初丸太に薄く鋸刃を入れたをとき、中から古釘が一本出た。挽いたばかりのカエデの白い木肌に黒い胡麻粒大の点が一箇所、小さくて私は気が付かなかったが、製材助手の人が見つけた。
 製材機を操作している製材屋のMさんがすかさず、「なんだよ、里の木か」といったのもうなずける。
 一般にカエデは山で育つ木で、人里離れた山の中の木なら釘を打たれるようなことは考えにくい。釘が出てくるというのはまず屋敷の中の雑木とみて間違いない。祭礼か何かの時に縄を架けるので釘を打ったとか、そんなことだろう。
 しかし買う前に判ればともかく、ここまできてそのことを問題にしてもしょうがない。怖いのは釘を挽くことで製材機の鋸刃が傷むことなのである。

 以前知り合いが桜の丸太を製材したら、木が石を噛んでいたらしい。当然ながら挽いた鋸刃がダメになって、製材屋さんから鋸刃の修理代を別途に取られたと聞かされた。自己責任という言葉がいっとき流行ったが、売った材木商は木の中のことまで知らないというだろうし、製材屋はかかっただけ請求するというのがこの業界の慣わしである。すべてユーザー責任。
 
 釘一本ぐらいならまだ大丈夫。ほんとうはそうでもないのだが、小首をかしげている製材屋さんに引き続いて鋸を入れてもらう。
 そしたら今度は、途中で鋸刃が進まなくなった。刃が切れないのか機械がウンウンいっている。何とか終わりまで行って現れた木肌を見たら、釘が3本出た。鉄の真新しい切り口が銀色に光っている。
 Mさんは「まいったなぁー」と嘆いた。これですでに鋸刃一本ダメらしい。ブツブツ小言を言いながら釘を見ている。
 私もこんなの初めてなのでオロオロしているとMさん、「こういう木は釘が何本入っているか判らないし、もうこれ以上やりたくないなぁ」と非情なことをいう。
 確かにその度に鋸刃を交換してやっていたんでは、製材にどれだけかかるか分らない。考えるだけで怖い話である。かといって挽き始めたばかりの何百キロもある丸太を置いて帰るわけにもいかない。にわかに汗が吹き出るのである。

 しかしそこは何だかんだ言っても人の好いMさんのこと。新しい鋸刃に取り替えさせて、渋々そうに再度製材に挑戦してくれた。横で立ち合っている私は、取れた板がどうのこうのより、釘が出てこないようにただ祈るだけ。突っ立って見ているよりほかない。もう汗だくで、まるでお産に立ち合う気の弱い亭主、みたいなものである。

 私の祈りが通じたのか、まだ運が残っていたのか、そのあとは釘が出ることもなく、なんとか製材が終了した。鋸刃の修理代はあとで請求が来るそうである。
 木を買って製材するのは楽しみなものだが、こうやってどっと疲れるのも製材なのである。
 蝿取り紙:2005年6月10日
 梅雨に入ってから丸太を何本か買った。製材をして工房に持ち帰り、桟積みをすることになった。
 ほんとうはこの季節、生材だとカビが心配なので、なるべく丸太には手を出さないつもりだった。そんなときいくつか話があって、また時期が悪いだの何だの言ってると次にいつ買えるかわからない、と話に乗ったのである。ともかく出物があれば買っておかないとという気になっている。
 案の定、積んだ板の一部でカビが発生しだしたので、あわてて陽当たりのよい東側に移動させたりして、空模様をにらんでは気を揉む毎日なのである。

 例年のことなのだが梅雨に入って、工房内を蝿がずいぶん飛ぶようになった。蝿叩きを片手にしばらく追いまわせば10匹、20匹と捕れる。蝿ぐらい気にしなければいいと思われるだろうが、ここの蝿はやたらと人間にまとわり着くのだ。顔に来たかと思うと髪の毛に移り、追い払うと逃げ、また耳元でブンブン。つい仕事の手を止めて蝿叩きとなる。
 しかし私もそうそう暇ではないので、今年も「蝿取り紙」に登場してもらうことにした。去年買ったのがどこかにまだ残っていたはずである。

 私ぐらいの年代には懐かしい蝿取り紙。子供のころ、家の台所や食べ物屋さんにはどこにでもあった。天井から吊った電燈のスイッチ紐なんかに、だらしなくぶら下がっていたものだ。
 ただ自分で買うのは始めてで、去年ホームセンターで見つけた時は、ヘェーこんなものかと再認識した。
 売っている状態は直径2センチ、長さが5センチ程の円筒形の紙筒で、先端に紐がちょろっと出ているところは、一見仕掛け花火ふう。筒を握って先端の紐を引っ張ると、中から琥珀色の紙が螺旋状に繰り出てくる。半透明の油紙は、かなりねっとりとしているので、出かたもゆっくりである。
 油紙を60センチほどで出しきると、紙筒の下部に巻いた折り紙を円く開く。これがもがいて落下する蝿の受け皿の役目をするのだ。
 実際やってみるとずいぶんよくできている。たいした発明品ではないかと感心してしまう。現に蝿取り紙はハウス栽培の虫除けに有効で見直されていると、最近の新聞記事で知った。エコグッズなのである。透きとおった琥珀色のリボンもなかなかシックである。ただ蝿がいっぱい貼り着いた状態は上品とは言い難いので、まぁお客さんのときは外しておこうと思う。

 これを工房の入り口近くの蝿がいつもぐるぐる飛んでいる所へ、鴨居から吊り下げた。しばらくの間に2匹捕れたが、まだ飛んでいる蝿のほうがずっと多い。停まってくれるのをただひたすら待つ、これまたなんとも時間のかかる仕掛けなのだ。
 これで安心して仕事に打ち込めるはずだったのだが、やはり効果の程が気になるもので、ときどき行ってみては蝿取り紙に張りついた蝿を数えている。「9匹か、さっきから増えてないな」とかやっている。

 襖(ふすま):2005年6月12日
 カミさんの知り合いの建具屋さんが、襖を張り替えてくれるというので、車に襖二枚を積みこんで隣町まで出かけた。
 建具屋さんといっても、正確には元建具屋で、やってくれるのはその元建具屋の奥さん。歳は70代だという。
 先年ご主人を亡くされたらしく、仕事場も整理したけれど、襖の張り替えぐらいならまだできるのだそうである。
 看板も片付けてしまったから、場所が分りづらいかもしれない。そう言われていたが、それらしき建物はすぐに見付かった。自転車屋さんの隣に、大きな仕事場とこじんまりとした住宅があった。

 もともとは同じ敷地内に仕事場が二棟あったらしい。ひとつは「固定資産税がかかるので」先日壊して更地にしてもらったとのこと。残っているのは30坪ほどの鉄骨造で、これがもうひとつあったとすれば、街の建具屋としては手広くやっていたほうではないか。
 今ではほとんどの家の建具が外部用はアルミサッシに、室内建具は建材メーカーのものに取って代ったので、実際のところこういった街の建具職人の仕事は減る一方なのである。

 車を更地に停め、奥さんと二人で襖を元の仕事場に運び入れた。
「息子がいるんだけど、勤め人の方がいいと言って後を継がなかったんだよ」という仕事場は、コンクリートの床もまだ新しくて、あまり使ってないようにも見える。
 入り口近くに、襖の張替えぐらいできるという作業台がひとつ。
 抜け殻のようながらんとした鉄骨の作業場である。
 元々ここに据えてあったはずの木工機械類は、業者に処分してもらったのだろう。ただ作業場の真ん中に古い昇降盤という機械が一台、ぽつんと残されていたのが不思議だった。モーターも配線もカバー類も外されていたから、がらんどうで機械としてはもう使えない。奥さんが上の定盤を作業台にでもしようと思ったのだろうか。
 業者が置いていった丸鋸の歯が何枚か、壁に掛ったままである。

 入り口から向こう側の棚に、昔使っていたらしい面取り鉋や、こまごまとした道具類がたくさん見えた。
 むかし教わった指物の先生が、当時やはり後継ぎがいなかった。私が仕事場におじゃまして道具箱の小鉋など見せてもらったとき、「(自分がやめた後)こういった道具をダメにしちゃうのが惜しくてね」とこぼしておられたのを思い出す。

 襖は「一週間ほどでやっておくから」とのことだった。
「息子に配達に行かせてもいいんだけど」
「それじゃ悪いから、また取りに来ますよ」
 立ち話をしていたら、
「繋がなくても(敷地の)外へは出ない」という、毛脚の長い犬が足元に近寄ってきた。こちらも歳をとっているのか、ゆっくりとした動作に甘えるような目で私のことを見上げる。老犬のによくある物悲しい目で見上げるのである。

 映画:2005年5月8日
 たまにしか会わないのだが、会うたんびに「忙しい、忙しい」とこぼしている友達がいる。
 先日、知り合いの女性が映画館でばったり会った時も、「なんだか忙しくって」と彼は言ってたらしい。
 ただそれが平日の昼間のことだったので、ギックリ腰で仕事を休み中だった彼女は、ほんとかねぇと思ったそうである。
 自分が忙しいと感じるレベルにも、かなり個人差があるに違いないのだが、彼にすればどんなに忙しくたって気分転換に映画ぐらい観るさ、ということかもしれない。
 いい大人が「ヒマでヒマで」と言ってるのも世間体よろしくないが、全然余裕のないヤツもはた目に見苦しい(ワタシノコトカ)。

 まだ20代だったころ、新聞の求人欄で見つけた仕事はデパートのウィンドーディスプレイだった。中央線中野駅の近くにある、社員が15人ほどのこじんまりした会社は、ショーウインドウや展示ブースのデザインから施工まで引き受けていた。
 そこに入ったのが確か9月の終り頃のことで、デパートはこれからクリスマス、年末商戦に向けての模様替えの準備が始まるところだった。会社もそれに備えて、アタマ数を増やしておく必要があったのだろう。とまあそれは後で知ったことで、ともかく入社早々からやたらと残業が多い会社だった。

 ウインドウや店内の模様替えは、休業日を除けば閉店後しか出来ないため、ふだんは夜の7時8時から現場に入ことが多かった。終わるのはたいてい終電のころである。たまに終電に間に合わないと都内の現場から、住んでいた国立のアパートまでまでタクシーで帰ったりした。新米のくせにタクシーだなんて、もったいないと自分でも思ったものである。
 忙しい時はただ寝に帰るだけで、起きると身支度をしてまた会社に向かった。車の車輪のような毎日だった。

 11月に入ると、どの店もクリスマス用にディスプレイを一新するために、仕事は多忙を極めた。一晩で何店舗かを一機に模様替えした日は、あちこちのデパートをハシゴして、最後の新宿店では夜が明けてもまだ終らず、朝10時の開店時間ぎりぎりまでかかった。従業員が勢揃いした店内では、すでに店長の朝礼が始まっていた。

 その日は片づけをして昼ごろ電車でウチに帰ったのだが、駅からアパートへの道をとぼとぼ歩いていると、いつも前を通る名画座の看板が目に入った。
 そしたら急に、こんな昼間に部屋に帰ってただ寝るのもなんだかシャクな気がしてきて、気晴らしに映画でも観てやろうかと、思ったらふらっと館内に吸い込まれていた。内容もよく知らない映画の二本立てである。毎日のように前は通っていたが、入るのは初めてだった。
 すでに照明が落ちて暗くなっていた館内は、平日の昼間でもパラパラと客がいた。
 お隣と適当に間隔の空く場所を探して、劇場独特の柔らかいシートに腰を沈めたら、やっと一息つけたという安堵感がこの上なかった。みんなが働いてる昼間から映画という贅沢感がうれしい。と、気持ちが緩んだとたん、どうやら熟睡に入ってしまったらしい。
 目がさめたのは一本目が終った後で、席を立つ客であたりがざわついてきたからである。一本まるまる観過ごしてしまった。気を取り直して次の一本はなんとか最後まで観たのだが、ボーっとしていて内容が頭に入っていかなかった。
 それから夢遊病者のように館外に出た。空はまだ明るくて眩しくて、いつもと変わらない街の風景があった。

 結局その会社での仕事は長続きせず、忙しさが一段落したクリスマスのころ辞めた。20年も前のたった3ヵ月間のことだったが、今でもときどき思い出すのである。
 ザツ:2005年2月28日
 原木市場に並んだ丸太には、一本づつ明細書が張りついていて、それには樹種と材の長さ、直径、材積(体積)などが記されている。これを基に取引きが行なわれるのだが、ごく稀に何の木か樹種が判然としない丸太が出てくることもある。
 ふだん流通してないものは、材木の専門家達といえども判らない事があるのだ。あるいは製材した板なら知ってても、丸太では見たことがない木もある。そういう場合、樹種の欄には「ザツ(雑)」と書かれる。

 「ザツ」という呼び方は、いかにも投げやりな感じがする。どうでもいいというかヨカッタラモッテケみたいなニュアンスである。せめて「樹種不明」とかなんとか、言い方があるだろうと考えてしまう。銘木といわれる木もナナシノゴンベイも同じ木ではないか。
 とは言っても、入札や競りといったいわゆる人気投票で値段が決まる原木は、素性のしっかりした木とそうでないで木ではそれこそ雲泥の差がある。
 材木屋にすれば、丸太で転売するにしても、板に製材して売るにしても、名前の通った木は売りやすいに違いない。例えばケヤキやナラやカンバなら誰でも知っているし、相場も見当が付く。名前がはっきりしない木はどう売っていいのだか、商品名がわからないのは致命的である。どうしても敬遠されることになる。

 そんな半端者扱いのザツには同情してきたとはいえ、買ったことはなかった。例えいくらかでもお金を投じてみようと思うようなものに、いままで出会わなかったのである。ウチみたいに自分で使うのなら、名前が判らなくても木が良ければ何とかなる。

 先日、知り合いの材木屋さんを覗いたら、奥に型のいい丸太が置いてあった。
 この頃は遠目でも、何の木かたいていは見分けがつくのだが、皮肌の感じがあまり馴染みのないものだった。近くで見ると切り口はピンク色をして堅くしまっている。広葉樹には違いないが、何の木だかよく判らない。
 「これは何なの」とおじさんに聞いたら、「それが何だか判らないんだよ」。
 仕入れた市場に在るときから何だろうという話だったらしく、ザツという扱いである。
 長さは2メートルで径が50〜60センチ。年輪もまあまあ詰んでいて悪くない。節を呑みこんだような出っ張りがあるが、傷も割れも少ないほうである。
 ザツだからそんなに高くはないだろうと、さっそく交渉し、譲ってもらうことにした。うまくいけばテーブル用の板が取れるかもしれない、などと皮算用。名前が判らないというのは心配でもあるが、どんな木か正体がはっきりするという意味では挽くのが楽しみである。

 後日製材をしてみると、少し節も出たが、なかなかキレイな肌の板が取れた。ザツもまんざら捨てたもんではない。
 知らない街でぶらっと入った店が美味くて安くて、ちょっとうれしかった、といったところ。

 製材屋さんはタブの木に似てるという。ほかにもいろいろ気をもんでくれる人がいて、どうもタブの木に落ち着きそうな感じである。タブはこのあたりでは珍しい木だが、西日本ではたまに出るらしい。そういえば高崎のスズランデパートの前に、大きなタブの木があると教えてくれた人がいた。
 
 竹スキー:2005年2月2日
 工房の東どなりに、といっても間に大家さんの畑があって、その向こうには、どこかのご先祖のお墓があったりするのだけれども、それらの先に大きな竹薮がある。
 冬木枯らしの強く吹く日、竹林が風に吹かれるさまを窓越しに眺めていることがある。ここは丘の上にあるために、他所よりいっそう強く吹くのである。
 風は絶えず吹く方向と風量が変化しているので、その強弱にあわせて竹もリズミカルに揺れたり、折れんばかりにしなったり。水藻が波にもまれているみたいにも見えるし、ダンサーが身体をくねらせて踊っているようにも見える。それを飽かず眺めている。
 それでも日が暮れて月が輝くころには、吹き荒れた風もたいていは止んでしまい、あたりが静かになると、竹林は何もなかったようにおだやかな姿に戻る。

 何日か前、県北の沼田市へ行ったら、むこうは本格的な雪景色だった。何だか懐かしい感じがしたのは、生まれ育ったところも雪の多いところだったからである。このあたり(甘楽町)では雪が降っても、二日と降り続くことはなく、また積もってもたいていは一日二日で消えてしまう。

 近年はそんなでもないらしいが、子供時分は冬の間の半分ぐらいは雪があったような気がする。
 雪が降るとスキーをして遊んだ。手製の竹スキーである。
 それほど昔のことではないので(と自分では思っている)、当時も子供用の板製のスキーがあったはずだが、そんなのを持ってる子はいなかった。まだ時代が貧しかったこともあるし、家が琵琶湖のほとりの平野部だったため、本格的に滑るような地形がなかったのである。子供の脚で行ける範囲では、堤防の土手が唯一のスロープで、それも物置の屋根ほどの高さしかなくて、スキーならほんの数秒で滑り下りてしまう短さだった。

 竹スキーは、まだ年のいかないうちは親に作ってもらったのだろうが、そのうち自分達だけで作れるようになった。
 作り方は、まず長さが1メートルほどの真竹を四つ割りか八つ割りして幅が4〜5cmの板をとる。片方で2枚使うので4枚が要ることになる。内側の節をはつり取り、外側の節の出っ張りも丁寧にならしておくと滑りが良かった。
 竹は先端から10cmほどのところを火であぶって、内側に向かってくの字に曲げる。これを2まい並べて適当な大きさの板、足裏が乗るぐらいの木の板に釘で打ち付けた。このとき釘をじかに打つと竹が割れるのでキリで下穴を空けたほうが良い。
 これで何となくスキーのカタチにはなる。あとは靴を止める工夫が要るのだが、サンダル式に足の甲でつっかける方式で、帯状のものを足載せの板に打ちつけた。いらなくなった革のベルトでもよかったが、自転車の古タイヤを適当な長さに切り、内側を外に向けて、つまり反転させて半円状に釘止めすると、型崩れしないし切れずに具合がよかった。

 そんなのをかじかむ手で作って、できあがると雪の中へ飛び出していったのである。
 土手を滑り下りるにはそれで充分だったし、ただ滑るだけに飽きてくると、雪を固めて坂の途中に瘤をこしらえて、ジャンプの高さを競ったりした。
 長じて、初めて山のスキー場に行く事になり、本格的な板のスキーを履いて滑ったときも、みんなからとても初体験とは思えないと褒められた。これも竹スキー時代のたまものと思っている。

 夢中で遊んでいると雪がゴム長靴の中に入り、靴下が濡れて、そのまま放っておくと霜焼けになった。なりやすい体質だったのか、冬はいつも霜焼けができて足先が紫色にはれた。
 いつごろからか、足の小指の付け根に大きな硬貨を押しつけたような霜焼けの痕ができた。こういうのは年がいってもてもなかなか消えないらしく、このあいだ確かめたらまだあったが、左足だと思っていたのは間違いで右足の方だった。

 
 本棚:2004年12月9日
 さしたる読書家でもないのだが、本がたまるのである。
 二階にある我が家で唯一の本棚はとうの昔に満杯で、一階のサイドボードらしきもの中や、洋服ダンスの上、机の上などにあふれている。ここへ越して来るまえに、読みそうにないやつをいちど処分したのだが、もうこのありさま。
 仮に月に2冊買うとして、一冊の厚さが平均2cmだとすれば、一年で48cm。家族三人だと、毎年約1,5m分の本棚が要る計算になる。たまるわけだ。
 子供が毎月買ってくるマンガ本に至っては一冊の厚さが4cm近くもあって、誰に似たのかこれが捨てられない性格で、畳の上にどんどん積み上げられていく。近い将来マンガ本の上に布団を敷いて寝ているかもしれない。あるいは十冊ほどをヒモで束ねれば、椅子代わりになるかとも考えている。
 読み返すことなどめったにないのだから、ダンボール箱にでも詰め込んで、押入れに仕舞っておけばいいようなものだが、それではたぶんさびしい気がするのである。
 壁一面、床から天井まで本棚のある家を雑誌なんかで見てあこがれたりするのだが、借家住まいでは、ないものねだりをしてもしょうがない。

 家を造るんだったら、と空想してみた。
 平屋で、ウナギの寝床みたいに細長い家。敷地が四角なら、途中で「く」の字に折れ曲がっていてもいい。ともかく細長い家、間口3間(5、4m)に長さ10間ぐらいのワンルームである。
 妻手の片方が入り口で、出入りはここだけ。家に入ると最初リビングがあり、その奥が食堂とキッチンスペース。次に行くとパソコンや勉強などをするデスクがあって、行き止まりが寝室。
 その長いワンルームを行ったり来たりして暮らす。いちにち一回は奥まで行ってまた戻ってくる。
 そして素通しだと丸見えで落ち着かないので、天井近くまである大きな本棚が、それぞれのスペースを区切る位置に立っている。間仕切り壁の代わりである。間口3間のうち、本棚の幅は1間半ほどにして、両側は通路として空けておく。あるいは逆に両側が本棚で、真ん中通路もあり。棚は両面使いにして、本の後ろは食器入れとか収納に。

 実はこの細長い空間は、やっぱりウナギの寝床みたいに細長いウチの工房がモデルである。
 空想にしては、このプラン悪くないと思うのだが、どうだろう。

 栃の実:2004年11月4日
 車の運転席脇の小銭を入れる窪みに、栃の実がひとつ入っている。いつからだったか、もうひと月以上経つかもしれない。
 これは高崎市の公園に行ったとき、入り口近くで拾ったものだ。前を歩いている二人連れの、一人の頭をかすめるように木から落ちて、私の足元に転がってきた。
 そのピンポン玉ほどの青い実をポケットに入れた。
 それから子供としばらく遊んだあと取り出してみたら、外の果肉が割れて、剥くと中からきれいな栗色の実が出てきた。
 ツートンカラーで栗に似てるが、栗のようなとんがりはない。掌に包んだときの感じがころっとして、かわいくて捨てるに忍びないので、例の窪みに入れたわけだが、さて植木鉢にでも植えてみようか、どうしようか思案中なのである。

 ときどき近くを通る小学校の校庭に、大きな樹があって、遠目に見てもそれはとてつもなく大きくて、以前から気になっていたのだが、傍まで行ったことはなかった。
 先日、日曜日の納品の帰りにふと思い立って、脇道を入り小学校の前まで行ってみた。
 木は正門の目の前にあった。栃の木である。
 いかにも大切にされているようすで、根元を踏まれないための柵囲いの中で、丸い壇状の盛土の上に樹は鎮座していた。学校の宝物といった感じの、特別扱いである。
 柵の中の立て札に幹周り4mとあるから、直径にすれば1m以上。
 背はそんなに高くないが、枝葉がこんもりと四方に広がって、外の道路上まで伸びている。ボウルを伏せたような格好が「この木何の木、気になる気になる…」という以前あったコマーシャルの木に似ている。

 立て札には由来書きがあり、明治の後半ごろに赴任した校長先生が植樹したものとあった。およそ百年前のことである。よくまあ今日まで、枯れず伐られず残ったものだ。
 しかし、校庭に植えるのに栃の木は少し変っている。
 普通、植えるなら桜。それとも松とか楠(クスノキ)なら何となく分る気もするけど、と余計な詮索をしてみたが、この大木を見上げていると、やっぱり栃の木でよかったのではないかと思えてくる。

 木が落す濃い影の向こうでは、少年野球の練習をしていた。
 こんな木が学校にあれば、子供達も幸せかしらと、ぼんやり考えた。
 10月半ばの日曜日、栃の大きな葉っぱが陽当りの良い南側だけ、いくらか黄色くなり始めていた。

 キリンベッド:2004年10月3日
 先日、建築家の清水さんがクライアントのご夫婦と一緒に来た。ダイニングテーブルの相談である。
 事前の電話で、テーブルを作ることはほぼ決まっていて、あとは材料選びと大きさをどうするか、ということだった。

 家具をオーダーするというと、お金に余裕のある年配のかたが多いと思われるかもしれないが、私の場合は新築時に頼まれることが多いせいか、お客さんは30代が一番多い。もちろんベンチャー企業のオーナーなんて人はいなくて、いちいち聞いたりしないが、ほとんど会社員あるいは公務員のひとではないかと思っている。
 若くして家を建てた上に、家具まで作るという更なる出費、他人ごとながらまあ大変だろうなと考えなくもない。

 しかしこれは私がよくする例え話であるが、世の中、屋根付きのカーポートに40万、50万円かける人はいっぱいいる。あちこちで立派なのを見かけるわけで、仮にそのお金をダイニングテーブルと椅子に使う人がいても、不思議でもなんでもない。カーポートか家具かは(もちろん他の選択肢もあるが)価値観の問題で、どっちかといえば椅子やテーブルこそ大切ではないか、そういってお客さんを勇気づけているのである。むろんカーポート派の方々にとっては大きなお世話だが。
 
 テーブルはいくつか材料をお見せして、結局桜の板で作ることに決まった。それからさて椅子はどうするかといった話になったのだが、椅子も同時にとなると更なる出費、家ができ上がるまで少し時間があるので考えてみますとのことだった。
 でもどうせ買うなら、長く使えるいいものにしたほうがいいですよ、とは清水さんと私からのアドバイス(ここでワタシの椅子はいかがなどと厚かましいことは言わない)。
 「一度に揃えるのは大変だから、いいものを1つづつ買い足していくというのも手です。とりあえず妥協して買って、あとで後悔なんて話もよく聞きますから。」
 清水さんは「それまでの間に合わせで買うんなら、千円以下にしなさい、それだったら気安く捨てられるから」と難しいことを言う。
 私も「キリンビールの空ケースだって椅子の代わりになるし大丈夫」などとつい無責任なことを言ってしまったが、あとで考えてみると新築住宅のダイニングである。まだシミひとつないテーブルにビールケースに座っての食事風景は、おおらかと言えばそうだが、ちょっと無理があるかと。

 それからこれもあとで考えたことで、ケースは「キリンビール」じゃなくてももちろんいいわけだけど、思わず「キリン」と口走ったのは多分こうではなかったか。

 学生時代、友達のTはビールケースを10個ほど下宿の畳に並べて、その上に布団を敷いてベッド代わりにしていた。その時のケースの銘柄がみんなキリンで色も黄色かったので、本人は「キリンベッド」と愛着のある名前で呼んでいた。
 「キリンベッド」は何人か真似をするヤツも出るくらいで、なかなか好評だったのだが、この場合の椅子もそのせいで「キリン」になったのではないか。などと、ひとり古い話を想い出して可笑しかった。

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